歴史をたどるー小国の宿命(73)

西は第86代の後堀河天皇、東は第3代の執権である北条泰時が、それぞれ新しい時代を切り開く立場となった。

ところで、後堀河天皇は、あの高倉天皇の孫にあたる。

高倉天皇が、源平の戦いが本格的に始まった1181年に亡くなったことは、以前に触れている。高倉天皇の第一皇子である安徳天皇が、壇ノ浦の戦いで入水して亡くなったことも触れた。

ただ、高倉天皇の第二皇子であった守貞親王(もりさだしんのう)が、承久の乱のときもまだ生きていたのである。

その守貞親王の第三皇子が、後堀河天皇であった。

鎌倉幕府は、島流しになった後鳥羽上皇の直系の子孫を次代の天皇にはせず、後鳥羽上皇の兄にあたる守貞親王の子どもを天皇として迎えたのである。

ちなみに、後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子だったのだが、兄の守貞親王とは歳がひとつしか離れていなかった。

さて、後堀河天皇は即位したとき、まだ10才だったので、政治を行うには年配者の助けが必要だった。しかし、上皇の立場にあった後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇が流刑になったので、上には誰もいない。

したがって、父親の守貞親王が、院政を行うことになった。これによって、守貞親王は、後高倉院と呼ばれた。

一方、鎌倉では、義時が亡くなったあと、まだ生きていた姉の政子が、3代目の執権として泰時を立てた。

この泰時が、のちに有名な「御成敗式目」を制定するのである。


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