【続編】歴史をたどるー小国の宿命(87)
西郷隆盛は、幕府が命じた長州征伐について、事前に勝海舟に相談していた。
勝海舟と西郷隆盛の会談といえば、戊辰戦争の際に江戸城無血開城を実現させた話し合いが歴史上は有名であるが、実は、この長州征伐の直前に、勝海舟と西郷隆盛は初めて顔を合わせたのである。
このとき、勝海舟は41才、西郷隆盛は36才だった。
西郷隆盛は、初めて会った勝海舟の印象について、同じ薩摩藩の大久保利通(西郷より2つ年下)への手紙で、「英雄のような風格のある人で、惚れてしまった。」と書いている。
西郷と対面する4年前には、福沢諭吉とともに咸臨丸で何日もの航海の旅をしてアメリカへ渡った勝海舟である。
加えて、アメリカという国をじかに見てきたわけだから、西郷の目にも勝海舟の経験豊富な有能さが垣間見えたのだろう。
その勝海舟が西郷にアドバイスしたことは何かというと、「今は国内でゴタゴタ騒ぎを起こしている場合ではなく、幕府はすでに無力状態だ。雄藩を中心に国を動かさなければならない。」というようなことであった。
西郷自身も勝海舟の考え方に近く、幕府の命令とはいえ、長州と戦争しても、自分の藩や他の雄藩の戦費負担が重くなるだけであり、こんなに列強諸国の脅威がある中で、藩の弱体化につながることはしたくなかったのが本音であった。
かくして、西郷は、長州征伐において、実際の戦闘は行わず、和平交渉で済ませたのである。
西郷だけでなく、他の雄藩の藩士たちも同様の考えであり、幕府からすれば、長州を叩きのめす作戦は空回りに終わったのである。
この西郷の英断が、2年後の薩長同盟の布石となった。坂本龍馬がうまく仲立ちをしたことは有名な話ではあるが、西郷と勝海舟の会談がなければ、薩長同盟も実現していたかどうか分からなかっただろう。
そして、両者は、江戸から明治へと時代が変わる際も、長州征伐の戦闘回避と同様に、江戸城無血開城を実現させ、一人も血を流すことなく、話し合いで決着をつけたのである。
だが、長州藩を攻め込めなかった幕府の不満がまだくすぶっていたため、やがて第二次長州征伐(1866年)が計画されることになる。
しかし、このときすでに、薩長同盟は結ばれていた。
続きは、明日である。
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