【続編】歴史をたどるー小国の宿命(58)

朝廷や全国の大名に対して、家康・秀忠・家光の親子3代は、武力を背景にして、法律を作り、支配を強化してきた。

これは、「武断(ぶだん)政治」と呼ばれている。

だが、この手法がだんだんと国民の間に悪影響を与えるようになった。

例えば、参勤交代の義務化や船の積載量の制限によって、諸藩の財政状況が悪化したとしよう。

そのしわ寄せは、どこに行くだろうか。

田畑を耕す農民から、米や税金を納めさせて、武士たちは自分の家族の生活を守っていた。この時代の主要税は「年貢(ねんぐ)」であり、現物納であった。

ここで、現物納(げんぶつのう)という言葉を覚えておいてほしい。

現代の私たちは、当たり前のように、現金で税金を納めているが、これは「金納」(きんのう)と呼ばれる。

また、地価の上昇は、よく経済ニュースで取り上げられるが、江戸時代が終わるまでは、課税対象は、その土地で収穫されるお米の収穫高だったのである。

それが、1873年に、明治政府が施行した地租改正により、今の納税方式の基礎ができたのである。

その地租改正のポイントだけ、次のとおり示しておく。

①課税対象を、これまでの収穫高から地価に変更する。
②納税法は、これまでの現物納から金納に変更する。
③納税者は、これまでの耕作者から土地所有者に変更する。
④税率は、全国統一として、地価の3%とする。

この地租改正が行われた明治時代は、武士の時代は終わっていたので、農民による反対一揆が起こり、地租は2.5%に下げられた。

だが、家光が将軍だった江戸時代は、どうだっただろうか。

結局、大名を締め上げても、大名が武力を背景に百姓に一層の負担を強いることになる(=百姓は逆らえない)から、諸藩が支配する領地に住む百姓は、飢えに苦しむことになる。

家光による鎖国政策が完成した翌年(1640年)、運悪くも、東アジア全域で異常気象となり、干ばつなどもあって米がほとんど取れなくなった。

その状況は、1643年まで4年間も続き、「寛永の大飢饉」と呼ばれた。犠牲になった地域や人々は、江戸時代初期では最大規模であった。

現代の私たちの食生活は、ほとんどが海外からの輸入で成り立っており、食料自給率は低い。

寛永の大飢饉は、鎖国政策が完成した翌年とあって、最悪の状況だったのである。



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