古典100選(27)栄花物語

藤原氏の栄華を象徴する『栄花物語』は、本シリーズの第1回で紹介した『大鏡』とともに、重要な歴史的史料としての価値ある文学作品となっている。

その『栄花物語』のある場面に、藤原道長の六男である藤原長家(ながいえ)が登場するのだが、その場面では、長家の妻が早くに亡くなって長家の親族たちが皆、嘆き悲しむ様子が描かれている。

では、原文を読んでみよう。

大北の方も、この殿ばらも、またおしかへし臥しまろばせ給ふ。
これをだに悲しくゆゆしきことに言はでは、また何ごとをかはと見えたり。
さて御車の後に、大納言殿、中納言殿、さるべき人々は歩ませ給ふ。
言へばおろかにて、えまねびやらず。
北の方の御車や、女房たちの車などひき続けたり。
御供の人々など数知らず多かり。
法住寺(ほうじゅうじ)には、常の御渡りにも似ぬ御車などのさまに、僧都(そうづ)の君、御目もくれて、え見奉り給はず。
さて御車かきおろして、つぎて人々おりぬ。 
さてこの御忌のほどは、誰もそこにおはしますべきなりけり。
山の方をながめやらせ給ふにつけても、わざとならず色々に少しうつろひたり。
鹿の鳴く音に御目もさめて、今すこし心細さまさり給ふ。
宮々よりも思し慰むべき御消息たびたびあれど、ただ今はただ夢を見たらんやうにのみ思されて過ぐし給ふ。
月のいみじう明きにも、思し残させ給ふことなし。
内裏(うち)わたりの女房も、さまざま御消息聞こゆれども、よろしきほどは、「今みづから」とばかり書かせ給ふ。
進内侍(じんのないし)と聞こゆる人、聞こえたり。 

契りけん    千代は涙の    水底(みなそこ)に 
枕ばかりや    浮きて見ゆらん 

中納言殿の御返し、 

起き臥しの    契りは絶えて    尽きせねば
枕を浮くる    涙なりけり 

また東宮の若宮の御乳母(めのと)の小弁(こべん)、 

悲しさを    かつは思ひも    慰めよ
誰もつひには    とまるべき世か 

御返し、 

慰むる    方しなければ    世の中の
常無きことも    知られざりけり 

かやうに思しのたまはせても、「いでや、もののおぼゆるにこそあんめれ。まして月ごろ、年ごろにもならば、思ひ忘るるやうもやあらん」と、我ながら心憂く思さる。
「何ごとにもいかでかくとめやすくおはせしものを。顔かたちよりはじめ、心ざま、手うち書き、絵などの心に入り、さいつころまで御心に入りて、うつ伏しうつ伏して描き給ひしものを、この夏の絵を、枇杷殿(びわどの)にもて参りたりしかば、いみじう興じめでさせ給ひて、納め給ひし、よくぞ持て参りにける」など、思し残すことなきままに、よろづにつけて恋しくのみ思ひ出で聞こえさせ給ふ。
年ごろ書き集めさせ給ひける絵物語など、みな焼けにし後、去年(こぞ)、今年のほどにし集めさせ給へるもいみじう多かりし、「里に出でなば、とり出でつつ見て慰めむ」と思されけり。

以上である。

長家は、4人の女性と結婚したのだが、1人目も2人目も立て続けに若くして亡くなった。

しかし、藤原道長の長女(=彰子)に仕えた典侍(=最後の奥さん)との間に男の子が生まれ、そのうちの一人である忠家(ただいえ)が結婚して俊忠(としただ)が生まれ、俊忠の子どもが俊成(としなり)で、俊成の子どもが藤原定家(さだいえ)として生まれた。

藤原定家は、知る人ぞ知る『新古今和歌集』の撰者の一人であるが、彼がかつての多くの古典作品の写本を書いたことは非常に有名である。

藤原定家が多くの写本を書き残したことにより、現代の私たちは、『源氏物語』などで当時の人々の生きざまを詳細に知ることができるのである。

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