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あえて便利を選ばない理由

おはようございます。

今日は時代の変化によって変わった
コミュニケーションについて
ぼやいてみようとおもいます。


昨日こんなやりとりがありました。



【実家にて】

母「ご飯できたけん父さんにLINEして」

自分「うん。」

父へスマホで(ご飯できたって。)と打つ

なんの疑いもなくとった行動だった。

結局その日父と交わした会話は
「おかえり」
「ただいま」

のみ。



何かがおかしい。

便利になったからって使い方を誤ってはいないだろうか。


でも誰を責めるではない。

自分だってその環境に溶け込んでいる。

そのやりとりに一つの疑いもなかった。

でも一旦立ち止まって考えるべきだと思う。


LINEを作った人はそんな日常会話まで奪うつもりだったのか

おそらく違うはず。


便利というのはポジティブなニュアンスが強いが

虫眼鏡でのぞいてみると

そこに真心とか思いやりとかふれあいとかが

見えない時がある。


便利なモノは増えたが

要は人がそれをどのように活用するか

現代の人はそれを試されているように思う


モノを作る時はきっと

買ってくれる人の幸せやQOLの向上などを
考えて市場に出ていることが多いはず

(中には違う目論見のモノもあるだろうが)


それを私たちがどう使うかは自由だ。


LINEが流行り出したのは私が中学3年の頃。

メールとは違ってすぐに相手にメッセージが届く
グループラインなんていう便利な使い方ができる

胸が高鳴ったのを覚えている。


時が経ち、およそ10年。

今頃は愛の告白もLINEですることが多いそうだ。


「そこに愛はあるんか〜?」


と、よく耳にするCMのようにぼやく自分がいる。

でもこれももう違う考え方なのかもしれない。

ティーンからすると私ももうおばさんだ。

考えが古いと言われても仕方がない。


一番大事なのは、

双方が同意の上で、納得の上で
そのコミュニケーションの手段をとっているかだと思う。

それを見極めるのはやはり観察だと思う。


この場面はLINEを使うか
相手が近くにいるのなら足を運んで顔を見ながら
自分の口を使って伝えるか


選択するのは自分だ。


この姿勢はきっと
見えないようで、見える

人柄や雰囲気として。

そして周囲に影響を及ぼす。

そう思っている。


便利すぎる社会に生きる1人の人として

あえて便利を選ばない理由を噛み締めて


人とちゃんと向き合って

交流していきたい。


それが人を大事にすることに繋がる気がするから。



ではまた。

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