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2024年4月19日 ことばの焚き火Asaba Art Squareにて

2024年4月19日、神奈川県の金沢文庫駅周辺をぶらぶらした後、
その日の目的地であるAsabaアサバ Artアート Squareスクエアにお伺いしました。

道中見かけた花。白と濃いピンクのものもあって、華やかでした。
Asaba Art Square

対話前、足元に何かが当たると思って下を見たら、
ほっそりとした黒猫が
私のすねに顔を擦りつけていました。
しばらく私の足にマーキング(?)していたようですが、
その猫と真正面から顔を見合わせると、
そこで何かを感じ取って興味を無くしたのか、
静かに去っていってしまいました。

対話前の、小さな一期一会でした。

私はどうしてここに居るのか、
いま興味があるのはなにか。

私がこの対話会を知ったのは、Facebookがきっかけです。

【眠っていた「自分のことば」を思い出す】
こころの内側に湧き上がったことばを素直に出す時間。
場に出されたことばは、波紋のように広がり、その波がまた誰かのことばを誘う。
役割や立場や、文脈に絡め取られずに、自分のことばを出して行くと、
自分の内側とのタイワが始まって、
不思議とからだの中の流れがよくなる感じがする。
キャッチボールではなく、焚き火に薪をくべるように、
真ん中に声を出すひとときを一緒に。

ことばの焚き火タイワ@洞窟 イベントページ

1人で自分はわからない。
ひとを通して自分の姿が見える。
ひとがいるから自分になれる。

主催の方の言葉に揺さぶられることが多くて、
私も、この場に行きたいと思ったんです。

いま興味があるのは、「誠を尽くす状態でいること」だと話しました。

好奇心を犠牲にしなくては「誠実」は実践できない
という考え方が、制限になっていることにも気づきました。

無関係そうなことへのアプローチが
思いがけないかたちで、
自分の領分に活きることもある
ことを思い出すと、

「ただの好奇心」だから
と抑え込むのは違うんだろうと思います。

伝言メッセージと筒と、それから私。

「人とのコミュニケーション」についての話題が
それぞれの口から語られていたときに、
私の中で思い出されたのは、
ここしばらくくびたけになっていた辻政信さんのことでした。

私は3ヶ月ほど、辻政信さんについて調べ、
その過程で
「辻さんにはなにか伝えたいことがあるのでは」
と感じるようになっていました。

直接ことばを聞くことができないので、
彼の身に起こったことを
自分の身に引きつけて惻隠する
ということをしていたのですが、

これもまた、
(受け取り方がわからないまま)
御霊とコミュニケーションを取ろうとしていた状態だった
と言えるんではないかと思ったんです。

後半の数週間は特に、

伝えたいことがあって現れた辻さんを口実に
自分の想いを伝えてはいないか、

「辻政信さんの伝えたいこと」を
正確に伝える筒の役割をすべきではないのか、

そうは言っても、
私は私の人生や体感をもとにしか表現できない
私は私の筒にしかなれない

と、自分にかかる制限を感じていたので、
そのときのことを話しました。

自分の言いたいことを好き勝手に言って、
本意を伝えることに制限のかかっている辻さんをダシにして
彼もこう思っているに違いないというのは、

辻さんに失礼だし、卑怯な振る舞いになる…
と感じていたのが結構強烈に残っていたんだと思います。

ただ、ひととおり話した後、

同席していた方から
「その御霊さんは【私】さんという筒から出たかったんじゃないか」
ということばを貰って、

そうなら嬉しいな、と感じました。

もともと、辻さんに入れ込んだのも、
自己投影があったからなので、
辻さんの本意に沿った自己表現になっていれば良いな
とも思います。


「正しさ」への警鐘

「自分の正しさを主張して譲らないことが争いを生む」
というような話題になった時、
私の中では、「正しさ」とは何か
ということばの再点検が起こりました。

これはあくまで、
私がこれまでの人生で感じてきたことなのですが、

「正しさ」というものは、
「純粋」になろうとして「偏狭」になっているもの
の姿をしている…
と、私は思っています。

業が深ければ深いほど、
自己弁護のような心理が働いて
自身の正統性(正当性)を主張するようになるのかな、
と想像してしまうんですよね。

純粋な気持ちの時って、
周りからの声に対しても結構鷹揚に構えていられる
(不快感はあっても、構わずに居られる)んですけど、
世の中で揉まれて、
自分自身に迷いが生じたり、葛藤が出てくると、
安心するために「これでよかった」ことにしたくなって
「正しい」を引き合いに出してくるようになる…
という心の動きを経験したからです。

人の「正しくなさ」をわざわざ批判する人はつまり、
批判する対象に、
自分の厭世的な世界観を投影しているんだと思うのですが、
それが結果として、
「自分が彼•彼女の立場だったらそうなる」
という自己紹介の形になって現れるんだろうな
とも思います。

この日、一番嬉しかったこと

内側から湧いてくる言いたいことを素直に出せて、
心地の良い時間を過ごしましたが、
特に、良いなあと思ったのは、
対話した方たちとしたハグです。
受け入れられているような感覚になって、
不思議な心地がしました。



この日に湧いてきた言葉を振り返って、
さらに言葉を重ねてみました。

あっという間の2時間、
誰からともなく話し、沈黙も苦にはならず、
またあの空間の一員になりたい
と懐かしくなる心地の良い時間でした。


2024年4月21日 拝

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。