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三日坊主を受け入れよう(開き直らずに)

今年3月にNoteを始めて、最初は毎日投稿していたんだけど、気づいたら数日おきになり、その後、夏休みに入ったら全くの放置になっていた。

そして9月。新学期が始まり、またNoteを毎日投稿してみようと再決意したものの、昨日、気づいたら一日飛んでしまっていた。

スマホのカレンダーに毎日Noteの枠を取って時間を作ってはいる。けれど、リマインダ通知が来ても、その瞬間だいたい他の(もっと楽しい、あるいは動画見たりとか楽な)ことをしていたりして、「後で、短いつぶやきを5分で入れればいいか」と一瞬頭の隅にメモした、と思いきや、そのまま忘れて1日が終わってしまう。

これは三日坊主の完全なパターン。これまで生きてきて、何度も何度も経験している。

そして、その失敗を未だに受け入れることができていない。
またやってしまったぁ。次こそはちゃんとやろう。と、明日の自分がなぜか突然「できる人」になってしまっている。そして同時にできない自分をちょっと責めてしまう。

このような「次回からは気をつけます」方式はうまくいかない。努力や気力に頼らず、うまくいく「仕組み」を作ろう! という言説は最近あちこちでよく目にする。そしてあらゆる具体的な方法論が公開されている。

これらの方法論は、ぶっちゃけ、やるかやらないか、続けられるか続けられないか、それだけなのだけど、もう数十年も前に「わかっちゃいるけどやめられない(植木等『スーダラ節』)」という歌が存在していたとおり、できりゃー誰も苦労しないという話で。

実際、私も上に書いたとおり、自分で入れたカレンダーのリマインダー通知を普通に無視してしまっている。

自分が続けられる方法を試行錯誤しながら探していくしかないんだけど、これだ! という方法が見つかるまでの間も人生は続いているわけで、その間ずっとグツの悪い思いと自分のできなさに対する罪悪感を持ち続けているというのもあんまり良い方法ではないな、と思い始めた。

そもそも、私は、なぜ罪悪感を持つのか。なぜやる気に頼りがち、つまり精神論に持っていきがちなのか。

昔から、他人から精神論を押し付けられるのが大嫌いで、それに反発していたのに、自分自身に対しては無意識に精神論を適用していた。ダブルスタンダード。

例えば、教師や上司などの指導が厳しすぎる場合、生徒や部下は負けてたまるかと成果を出せる時もあるけど、反発が残ってしまう可能性がある。あるいは萎縮してしまって、望ましい結果が出ないかもしれない。
自罰的な場合も、同じことが言えるのではないか。

というわけで、まずは、できなかった自分を責めるのをやめてもいいかな、と思ったんだけど、そういう負の気持ちはあまりにも自動的で、反射的に起こってしまう。ずっと一緒にいる、よく知っている、おなじみの感情。

でも、そんな時は、まずそれに気づいて、自分が嫌な気持ちになってしまうのは当然だと受け入れてみようと思った。

私は、三日坊主でなく自分で決めたことが守れる、そんな素晴らしい人間になりたかった。でもできなくて落ち込んでいる。それは、未だに自分が変われるって希望を持っているということで、それってすごくね ?

仕事上のミスとか、他人を傷つけてしまったなど、明らかな間違いを犯した場合は、もちろん真摯に反省する必要がある。

けれど、Noteの記事が続けられないとか、誰にも迷惑かけてないし、たかがちょっと(しばらく)途切れただけのことじゃない。

続けたいと思う気持ちがまだあるなら、懲りずにまた始めればいいし、続けたくないなら、一旦お休みしてもいい。

つい、ネガティブな感情の方をおおごとに捉えてしまいがちになってしまうけど、その中で、確かに、毎日書き続けたいというポジティブな感情もある。そっちも同じくらい気にかけてみよう。

そもそも三日坊主やったことで、こうやって一本記事書けたしね(笑)



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