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月のナイフ

月のナイフ   

 

 男には新しい友達ができた。

 妻と子を一緒に亡くして、途方に暮れ、毎晩泣いて暮らすようになってから出会った友達だった。

 目を閉じれば、まぶたの裏に幸せだった日々が次々と浮かぶから、男は眠ろうとするのをあきらめ、窓辺にティーセットを持ち込むようになった。そこに差し込む月明かりが、男の新しい友達である。

 窓からは、妻と作ってきた果樹園がよく見えた。こぢんまりとした空間ではあるが、手入れは行き届き、実のひとつひとつに張りのある、うつくしい果樹園だった。果樹園を見ることも男にとってはおそろしかった。枝葉を切る妻の後ろ姿、振り返った時のはにかむ顔。うつくしい林檎や梨を、ついに食べることなくいなくなってしまったわが子。それらが一気に思い出されるからだ。が、窓から見下ろす果樹園は、月明かりにひんやりと照らされ、まるで少し前の状態のまま、冷やして保存されているかのように見えた。もちろん、妻も子もそこにはいないが、夜の窓辺からの景色は、男の心をすこしだけ癒した。

 月明かりはティーカップをも照らす。
 月明かりは、男のゆいいつの晩酌相手だった。

「そういうときに飲むのは、たいてい酒だと聞いていたがね」

 月明かりは紅茶の水面を照らす。 

「飲めないんだよ。俺も、妻も」

 男は向かいの席に置いたもうひとつのカップに紅茶を注いだ。はじめは妻の分をと思って注いでいたが、気づけば月明かりを相手に注ぐようになっていた。

「まあ、私も紅茶は好きだ。ところで、そろそろ果樹園の手入れ、してみたらどうだい」

 このところ慣れ親しんできた月明かりは、こういう無遠慮なことも言う。

「よせ、考えたくもない」

 跳ね返しつつも、男はわかっていた。うつくしかった果樹園は、この短い間であっという間に雑草に覆われ、枝葉は伸び進み、地面が熟れすぎた実で覆われ、見るも無残な姿になっていること。窓辺から見下ろすだけの男には、伸びた枝葉の奥は見えないが、その有様は想像に難くなかった。振り払うように細くため息をつき、男は頬杖をくずした。

「もう、いいんだよ。俺は果樹園に降りることもないだろう。果樹園も今は彼女らの死を悼んでいるんだ。お前がそうして照らしてくれれば、それでいい」

「ふうん」

 月明かりが、ふ、と消えた。窓の外を見上げると、厚い雲が月を覆い隠したところだった。

 久しぶりに、ひとりの夜が訪れた。男はかつて好きだったロシアンティーを思い出す。妻と収穫した果物をジャムにして、紅茶の中にたっぷりと落とす幸福感……。この窓辺のテーブルで、朝の一杯を楽しんだことが、つい昨日のようだった。

 次の夜も、男はティーセットをそろえて椅子にすわった。

「やあ」

 月明かりは男よりも早く、窓辺についていた。

「昨日は突然いなくなって、それきり来なかったじゃないか」

 男は今日も、二杯分の紅茶を注ぐ。月明かりがカップの持ち手を照らす。

「ああ、仕方ないね、ああいうときは。ところで今日は土産があるんだ」

「土産?」

 問い返したときにはもう、テーブルの上に、ひとつの梨が置かれていた。大きくて艶のある、黄緑色の梨が、月明かりの真ん中で光を放っている。男は唖然として、月の方を見上げた。

「これ、いったいどうしたんだい。お前、こんな芸当ができたのか」

「それは過去に私が照らしたものだ。照らしたものの形さえ覚えていれば、同じものを作り上げることができる」

「うちでとれた梨なのか」

「そうだ」

 男は梨をしげしげと眺め、おそるおそる、手で触れてみた。手のひらに乗せた。硬く薄い皮の内側に、たっぷりの甘い汁。果樹園で収穫した時と同じように、梨は男の手に重さを伝えた。違う点といえば、ほんのりと光を放っていること……。

 いや、それも、違わない。男は突然に気が付いた。妻と育てた果物はどれも、薄く光をまとっていたことに。それが今、夜の暗がりであらわになったのだ。
 しかし、そんなことよりも月明かりの言葉の方が大事だった。

「照らしたものの形さえ覚えていれば、よみがえらせることができる、と、そう言ったのか」

「ああ、言ったよ」

「ならば」

 妻と子を、この場によみがえらせることもできるのではないか。男の考えはそればかりだった。言葉ではなく息の塊として出た男の願望を、月明かりは白々しく照らした。

「私が作り出せるのは、形だけだ」

「それでも、ないよりはどれほどいいか」

「昨日、雲に隠れたときに思ったのだ」

 男はじれったい気持ちで、梨を見つめた。そうすると、月明かりの声は、梨から発せられているようにも聞こえた。

「私は、月面に拒絶された光だ。月にとどまれなかったことをどれほどか悔やんだ。が、その先で、君たちの果樹園と出会えたのだ」

「何が言いたい」

「君を覆っている雲も、いつかは晴れると、伝えたくなったのだ」

「ならば」

 ふ、と、月明かりが消え、目の前にあった梨も消えた。月が雲の向こうに隠れ、部屋は暗闇に落ち込んでいた。黒い空から、ぽつ、ぽつ、と雨が落ち、窓をたたいた。雨が増えてきたところで、男は窓を閉め、カーテンを引いた。

 夜が明けても雨は続き、風が家をゆらした。果樹園を撫でまわした。男はついに紅茶を入れる気力もなくし、蛇口をひねった。カップを水道水が満たした。不味い水だった。カーテン越しに、遠くで落ちる雷が見えた。今夜は月明かりと会えないだろう。しかし毎晩絶やさずに続いていた晩酌が途切れても、悲しくはなかった。それを上回る悲しみが、もうずっと、男の心をふさいで、他の悲しみが入る余地はほとんどなかった。

 水を飲んだり、ピクルスをかじったりして過ごした。瓶のピクルスは残り少なかった。
 窓の外はいつ見ても暗く、朝なのか、昼なのか、夜なのか、男にはわからなかった。
 窓辺の椅子に根付いたように座って、男は空のカップが時々雷光に照らされるのをただ見ていた。

 どれくらいそうしていただろうか。

 外から、ぱき、と、何かの割れる音がした。

 ひとつ聞こえると音は増殖するように続き、ばき、ばき、と、徐々に大きくなった。ああ、枝だ、と男は察した。弱った枝の数々が、雨風に折られているのだ。それもやがてとだえた。聞こえているうちはどうでもいいとさえ思ったが、とだえてしばらくして、男はカーテンを開けた。

 外は変わらずの暗闇で、果樹園の様子はわからない。

 窓を開けた。大粒の雨と風と、熟れた果物のにおいが吹き込んで、カップがひとつたおれた。

 何がそうさせるのかはわからないが、男は身を乗り出した。もう何日も着ているシャツが風でふくらみ、雨水を吸った。土の香りが室内になだれ込む。雲の向こうで、風がごうごうとなっていた。そこに友達もいるのだろうか、と思う次の瞬間、下界に光を見つけた。

 真っ暗闇かと思えた果樹園の中に、光る一点があるのだった。

 男は風に押し戻されるように身を引き、踵を返すと、犬のように階段を駆け下りた。もうすっかり椅子に根付いたように思えたこの身体が、こんなにも動くことが不思議で、いっそおかしかった。つまずいて、すぐに手すりにしがみつき、また足を動かす。男はスリッパを後ろに飛ばし、玄関にかじりつくように外へと飛び込んだ。

 果物の腐ったにおいがむっと襲ってくる。それをかきわけ、自分が雨なのか人なのかわからなくなりながら、光の見えた方へと進んだ。はだしの裏に、折れた枝の先が何度か傷をつくった。うつくしかった果樹園は、もうひとつきも手入れを怠ったうえに雨風にさらされ、ほとんど土砂であった。それでも幹の色や、葉の形は残っており、そこには年月があった。男はそれよりも、ほとんど土砂であることをありがたいと思っていた。
 今の身体は、かつての、うつくしい果樹園を浴びるに堪えられないからだ。

 やがて光の一点が見えてきた。光がはじけ、雷鳴が地面をゆらした。わりあい近くに落ちたようだ。
 男はすがりつくように光へと駆けて行った。

 そこにはひとつの梨が、泥にまみれて、光を放っていた。腐ってはいない。しっかりと育った実だ。

「お前、こんなところでどうしたんだ」

 男は語り掛けた。

「ああ、君か」

 梨は、月明かりの声で答えた。

「窓から妙な光が見えたんだ、それで、まさかと思って」

「上をごらんよ」

 言われ、男は仰ぎ見た。梨の木の枝が幾本か折れ、真っ黒い空が見えていた。目に、口に、雨粒が入った。

「私はかつて、そこから差し込んだのだ」

 男は梨の泥を丁寧に払い落とした。窓辺で毎晩紅茶を共にした、月明かりそのものだった。それは幼い子の頭の重さにも似ていた。

「月面に拒絶され、悲しみに突き落とされるように、この地に降り立った。月にとどまれなかった私に未来はないと、そう思っていたのに、ここには、果樹園があったのだ。君たちのつくったうつくしい果樹園。私は救われた」

 月明かりの声は、雨風の音に時々つぶされそうになりながらも、男の耳に届いた。

「君たち夫婦の愛情で育てられたここの果物は、私を拒絶しなかった。その実にいつも月の光を宿らせてくれた。その実が人や鳥や虫を生かしてくれた。今あるこの光は、私は、その時に果樹園の地に蓄えられた月明かりだ」

「お前も、過去のものだったのか」

 梨に雨粒が落ち、曲線を伝い落ちていった。

「俺の今に寄り添ってくれた友達の、お前も、やはり過去だったんだな」

「それは違う。言っただろう、今は雲が覆っているだけなのだ、いつかは、何もかも晴れるのだと。うつくしい果樹園は、過去じゃあない。未来のすがただ。私はね、君との間に雲が入り込んでようやく、そう思ったんだよ」

 男は泥に膝をついて、声も殺さずに泣いた。男の心は引き裂かれそうだった。

 未来など、今はどこにもないのに。

「なあ、聞いてくれ、友達よ」

 月明かりは続けた。

「私がよみがえらせることのできる形は、ふたつまでだ。そして、それは私が言葉を話すことと引き換えでもある。ひとつは梨。そしてもうひとつ、君に渡したいものがある」

「渡したいもの?」

「台風が終われば、雲一つない夜空が出る。私はまた、君の座るテーブルに差し込むだろう。その時に受け取ってほしい」

「お前までいなくなるということか」

「いなくならない。私は、言葉を失うだけだ」

 拭っても、拭っても、梨は水滴にまみれた。

「台風が過ぎたら、また一緒に紅茶を飲もう」

 

 

 雨雲は朝には消えてなくなり、澄み切った空気が町中に広がった。果樹園のよどんだ空気も、いくらかましになった。
 男はひと月ぶりに体を洗い、服を着替え、服を洗った。水を沸かし、ポットに茶葉を入れた。少しこぼれた。手が震えていた。
 夜を待った。とてつもなく長い一日だった。夜を待つ間、何か食べたいと思った。ピクルスの残りをすべて食べ、魚の缶詰を開けた。雨と泥で汚れたままのテーブルで、それでも、男は食べ物を口に入れた。

「やあ、ひどい顔だな」

 やがて現れた月明かりは、真っ先にそう言った。

「もうすぐ話せなくなるっていうのに、言うことがそれかい」

 男は笑った。笑える自分に驚いた。もう笑うことなどないと思っていたのに。

 男と月明かりは、紅茶を飲みかわし、しばらく、話をした。果樹園がどんな風に作られたのか。わが子と収穫をする日がどんなに待ち遠しかったか。どんなに月面にあこがれたか。男の家族の死を、月明かりも、男と同じように悲しんだこと。果樹園の木のひとつひとつも、やはり悲しんでいたこと。

 ポットの中身も尽きるころ、テーブルには、光を放つ梨があった。
 いつかここに現れたものであり、台風の夜に男が駆け寄って拾い上げたものだった。

「渡したいものがあるって言ったな、そろそろ教えてくれないか?」

 窓の外に問いかける。光は変わらず差し込んでいるのに、返事がなかった。男はそこで、梨の隣に置かれたひとつのナイフに気が付いた。妻が愛用していたものと同じナイフだとすぐにわかった。ナイフは切っ先を男と反対側に向けて、ほんのりと光を放っていた。

 震える手でナイフを持った。その重さをはじめて知った。果物をナイフで加工するのは、いつも妻の仕事だったからだ。

「ああ、そういうことか」

 男は独り言つ。言い返すものはない。男は両手でナイフを握り、自分の首へと向けた。月明かりは声を発さず、男を照らしつづけていた。

「……いや、そうじゃないか」

 ナイフを右手に持ち替え、左の手で、梨の実をつかんだ。どちらも人肌のようにあたたかかった。刃にあたる光が目にまぶしかった。男は歯をくいしばり、背を丸め、震える刃を梨の実にあてた。梨の実も震えていた。妻の手つきを必死で思い出しながら、梨の表面をすこしだけ傷つけた。

 光も、あたたかさも、ただずっとそこに宿っていた。

 どんなに時間をかけてしまってもいい、これをジャムにしよう。そしてロシアンティーを二杯、いや、三杯いれよう……。梨を剥きながら、男はそう思うのだった。




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