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はちみつ色のなみだ

 東久留米にありますはちみつ店〈キシュエルドゥ〉さまを舞台に書かせていただいたお話です。
 夏が来る前に、ひとさじの春をどうぞ……。


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 草木や虫や、鳥たちは、春が来たとわかるといっせいに、隣にいるだれかと、こそっと話をします。春が来たね、うん、来たね。話といってもこの程度です。春が来たことをたしかめあうと、みな、くすっと小さく笑って、それからまた、素知らぬ顔で風に吹かれます。そんな春の第一報は、川のそばに建つこのはちみつ店にも、きちんと届いているようです。

 川と住宅街のはざまにあるこの場所には、水の匂いが色濃くただよっています。その中に、ふっと花の匂いが混ざったら、合図です。商品棚の上でうとうとと舟をこいでいたメエは、ゆっくりとまぶたを上げ、ゆっくりと、羽を動かしてみました。メエの羽、触覚、やわらかな毛は、遠くの国からのメッセージをしっかりと受け取っているのです。朝早くから、いっしょうけんめいに働いている仲間たちの声を……。

 メエも朝寝坊をしている場合ではありません。
 メエは黄色いスカートをひらりと広げ、棚から飛び立ちます。鏡の前へ行き、帽子をきちんと整え、まつげも丁寧に上げていきます。

「おや、ねぼすけのメエちゃん。お目覚めかい」

 まだ開いていないガラス戸の向こうから、カルガモの姉さんが声をかけました。

「ごきげんよう、カルガモの姉さん。春が来たんだね」
「もうしばらく前から来ているよ」
「それは知ってるわよ。春が気持ちよくってうとうとしちゃっただけ」
「あはは、メエちゃん、去年もそんなこと言ってたわね。それより、うちの子たち、見に来ない? ふわふわでかわいいのがいっぱいできたんだよ」
「わあ、ついに生まれたんだね!」

 メエはいそいそと鍵を引っ張り出し、戸を開けました。花の匂いがやさしく渦巻いて、メエの羽をなでていきます。

 メエは決して、大事な仕事を忘れていたわけではありません。だけど、それよりなにより、カルガモの子たちに会いたい気持ちでいっぱいで、ついつい姉さんについていってしまうのでした。

 メエの仕事――それは、遠く、ハンガリーで働くミツバチたちの声を拾い上げて、大切に保存することなのですが――蜜を集める季節はまだ始まったばかり。そう急ぐこともないでしょう。メエは鼻歌とともに、川へと降りていきました。

 川沿いの道には、桜が咲きはじめ、菜の花がそこかしこで手をふっています。水面にうつる光は、水草や水底の石、泳ぐ鯉たちと、転がるようにじゃれあっています。その流れを追っていくと……。いました、ちいさなふわふわの、カモの子たち。色鮮やかな黄色で、まるで花のようです。カモの子たちは、メエのスカートを見てきょうだいと思ったのか、興味津々といった様子で近づいてきます。

「坊やたち、キシュエルドゥの看板娘のメエちゃんだよ。遊んでもらいなね」

 姉さんに看板娘などと紹介されて、メエはむずがゆい気持ちです。

「よろしくね、ちっちゃい子たち」
 せいいっぱいお姉さんらしく言うメエを見て、カモの子たちは顔を見合わせました。そしてこう言ったのです。

「メエちゃん、メエちゃん。さっきあっちにもいたよ、メエちゃん」

「え?」
「あんたたち、あっちの方って、まさか子どもだけで行ったのかい」

「心配はいりませんよ」

 あわてふためく姉さんの前に現れたのは、カメの兄さんです。どこにかくれていたのか、甲羅をぬらりと光らせて、草をふみふみ、やってきます。

「僕がちゃあんと見ていたからね、安全、安全」
「まあ、それはどうだかね」
「そんなことより、あたしがいたって、どういうこと?」

 カモの子たちは「こっち」「こっち」と口々に言いながら、川の流れに逆らっていきます。あわてて追いかける姉さんとメエです。カメの兄さんは、気だるげなため息をついて、また水のある方へと潜っていきました。

 やがて一行は、水の流れをせき止めている何かを見つけました。何かは、水草の根で引っかかって、それ以上動けないようです。

「ほらメエちゃん」「メエちゃんが二羽」

 カモの子たちは、くちばしでちょちょんと順番にふれていきます。
 それは、確かにメエとそっくりです。まんまるの頭から伸びたふたつの触覚、長いまつげ。透明な羽。黄色いスカートまでもがおそろいです。違う点といえば、メエよりひとまわり小さいところ、硬く閉じられた目。帽子もかぶってはいません。そして川の水に浸ったからだには、あちこちに、草や根のくずがついて、スカートも一部やぶけてしまっています。メエは自分がぬれるのにもかまわず、ハチのお人形のそばにひざまずきました。

「おうい、あなたは、誰?」

 返事はありません。だけど、頬にはほんのりと赤みがさしています。メエの心臓はどきどきと鳴るばかり。どうしよう、この子、このまま水に浸かっていたら、顔も青くなって、もう戻って来られないのかもしれない……。だけど助ける方法なんてわかりません。おろおろとするメエに、カルガモの姉さんが言いました。

「ほら、この子の頭の方をもって。あたしは足の方をくわえるよ。ふたりで持ち上げれば、そこの陸地になら上げられるでしょ」

 そうだ、このまま、何もしないわけにはいきません。
 何と言ったって、季節は春なのです。ふと見渡すと、鯉も、メダカも、ちいさなカニたちも、カワセミも、菜の花も、仏の座も、水仙も、シダも。みな、メエたちを見守っているようでした。春の日は高いところで散らばって、空の青色をつくっています。このお天気なら、濡れたからだもあっという間に乾くでしょう。

「ようし」
 メエは、お人形の首のあたりに、自慢のやわらかい手をまわしました。姉さんと「せーの」で持ち上げます。布が水を吸って、なかなか思うようにはいきません。カモの子たちは、ちいさなくちばしで下から押し上げてくれています。

「えいや!」

 掛け声とともに、ついにお人形は草の上にあげられました。メエも姉さんも、カモの子たちも、すっかり荒い息です。あちこち引っ張られたはずのお人形は、それでも目を覚ます様子がなく、春の日に当たっています。

「乾きはするだろうけど、目を覚ましてくれるかどうか……」
 姉さんがつぶやいたとき。ふ、と、注いでいた日の光が遮られました。見上げると、翼を広げた鳥の形が、陰になって、そこにありました。

「ああ、アオサギの親分か」

 そうとわかると、メエもほっと胸をなでおろしました。アオサギの親分はゆったりと降り立ち、そよ風を起こしました。

「わしがあんたの店まで運んでやるよ。店主に見せれば助けてくれるだろう」

 お人形はアオサギの足にやさしくとらえられ、舞い上がっていきます。子守で長く離れられない姉さんにお礼と別れを告げ、メエもあとに続きました。

 お店のそばにある大きな桜は、先ほどよりも花を増やしているように見えます。〈キシュエルドゥ〉では新しい瓶を入荷したところのようで、店主が棚の埃をとり、はちみつとジャムを並べています。軒先にはグラノーラや焼き菓子が、甘い匂いをただよわせています。メエがガラス戸をこんこんとたたきます。

「あ、メエちゃんどこに行ってたの……あら、アオサギさんまで」
「この子を見て、あたしにそっくりでしょ」

 言うまでもなく、店主は戸を開けて、アオサギが持っていたお人形に両手を差し出しました。お人形が店主にわたると、アオサギは「ふー」と息をつき、地面に降り立ちました。

「ここはたまんないな、いっつもいい匂いがして」
「その子、川の中に倒れていたの。カモの姉さん家族が見つけて、アオサギの親分が運んでくれたんだよ」
「ずいぶんと冷えて、かわいそうにね。アオサギさん、とりあえずお礼のひとさじ、いっとく?」
「待ってました!」
 アオサギはちいさく旋回します。親分といえど、甘いはちみつには目がないのです。ひとまず、お人形のことは、店主に任せることにしました。

 店主がお人形を奥へと持っていくあいだ、メエははちみつの蓋を開け、アオサギの親分の口に、ひとさじ分たらしてやりました。飲み込むと、アオサギはうっとりと目を閉じ、首をのばして、その場で羽ばたきをしました。

「ここのアカシアのみつ、大好きでな。花はいったいどこに咲いてるのかね」
「お花はハンガリーにあるのよ、ミツバチたちもそこにいる」
「どこかね、そりゃあ」
「遠くの国よ。落合川が流れる先に、おっきい海があって、そのさらにずっと向こう」
「はあ、海の向こうは何度も言ったが、ハンガリーってとこは知らんかったな。今度行ってみるとするかあ」
「え、行けるの? ハンガリーに」
「メエだって、その気になれば行けるだろう。羽があるんだから」

 考えてみたこともありませんでした。ハンガリーには、一生懸命はたらくミツバチたちがいて、一緒に暮らしている人間がいて、花が咲いていて……そしてこの店にはちみつを届けてくれる、遠くの国。ミツバチたちの声や、出来上がったものを受け取りながら、メエは、ほんのりと憧れを抱いたまま、それ以上近づくことはできないような気がしていたのでした。

 そうか、行けるんだ、今も飛び回っているミツバチたちの国に……。

 メエの胸は、蜜をゆっくり注ぐときのように、とく、とく、と鳴っていました。

 その時、店主がガラス戸を開け、外で待っていたメエを呼びました。
「ちょっと手伝ってくれる? メエの力が必要みたい」
 メエの触覚はぴくんと震えました。


 
 お人形はぬるま湯で洗われ、丁寧に水気を拭き取られ、スカートのかわりにハンカチを巻かれて横たわっていました。心なしか、頬の赤みは増し、目元もおだやかに見えます。メエはほっとひと安心です。が、まだ何かが必要だと、店主は言います。

「ねえ、メエ。奥にしまってある〈とっておきのみつ〉、使ってもいい?」
「え?」
「メエが毎年、ハンガリーのハチたちの声に耳をすましてくれていたでしょ? そこからできた、とっておきのみつ。使うなら、今だと思わない?」

 メエは、ごくりとつばを飲み込みました。ハチたちの声に耳をすます。それは、メエの担当する欠かせない仕事。蜜を集める季節――それは春とは限らないのですが、特に、春。アカシアの花が咲き始める頃、ハチたちの声は活発になります。ハチたちは実際にとる蜜だけでなく、その時のあたたかな思い、そうではない思い……いろいろな声を、海を越えて、メエに届けてくれます。

 それらは瓶に詰められ、メエの手によって〈とっておきのみつ〉となるのです。

 メエが頷いたので、店主も頷きました。そして、さらに奥の部屋の、日の当たらないところに保管されているものの中からひとつ、瓶を持ってきました。

 瓶いっぱいに、透明な蜜が満ち満ちています。それは日の光にあたると、きらきらと輝きました。
 メエは蓋をあけ、そこからひとさじ分、すくいあげました。店主がお人形のくちびるをそっと開き、メエが、蜜を含ませます。ひとしずく、お人形の頬を伝って落ちていきました。しばらく待ってみます。店主もメエも、息を止めて、じっとお人形の目が開くのを待っています。

 ……何も起きません。
「去年のものじゃだめなのかな」と、店主が肩を落とします。

 メエは目を閉じて、深呼吸をしました。おもむろに帽子を脱ぎ、お皿のようにして両手で掲げ持つと、すこしずつ……遠い国の声が聞こえてきます。

 ミツバチたちの声です。

(今年はいい蜜がたくさんとれそうだ)
(そんなこといって、集めてからの方が大変じゃないか)
(蜜を横取りしてくるやつもいるしなあ)
(それは助け合いだよ。おかげでおれたち、今年も冬を越せたじゃないか)
(たまごも孵ったことだしな)
(そうだ、みんなのためだ。頑張ろう)
(おうい、アカシアはこっちだぞ)

 いくつもの声と、甘い花の匂いが、帽子の中に渦巻いていきます。光を伴い、やわらかくなり、メエが目を開けると、帽子の中は透明な液体で満たされていました。部屋の中は、液体の反射で、ほんの少し明るさを増しています。メエは何度やっても、この美しさに慣れません。ここからとろみがついて、みつになります。

「今年の春……たった今、飛び回っているハチたちの声よ」

 メエは帽子にたまった液体を、スプーンですくいました。そして、もう一度お人形の口へと近づけます。

 見れば見るほど、この子はメエと同じつくりをしています。気が付くとメエは、自分のふるさとのことを思っていました。自分がどこから来たのか、誰によって作られたのか……。メエは知らないのでした。
 もしかしたら、この子は、同じ場所から来たのかもしれない……。

「あ、目が!」
 店主が小さく叫びました。ミツバチのお人形は、頬をべとべとにして、眠そうな目を薄く開けていました。
 


 お人形は、店主に「ミイ」と名付けられ、新しい看板娘になりました。お店にもあっという間に慣れ、今では近所のお客さんたちともすっかり仲良し。メエを本当に姉のように慕っていて、今日は一緒にカモの子に会いに行きます。

「川、怖くないの?」
「へいき! 涼しくていいきもちだもん」
 ミイはそう言って、踊るように飛びました。

 今日はお店がお休みの日。カモの子と一緒に石を拾ったり、花を摘んだり、追いかけっこをしたりする看板娘たちを、店主は歩道から眺めていました。

「ご苦労」
 アオサギの親分が、ぬらりと現れ、柵に降り立ちました。店主とアオサギは、互いにお辞儀をしました。

「元気になってよかったでないか、あの子」
「アオサギさんのおかげですよ」
「して……どのようにしてあの子は生き返ったんかねえ」
「あら、あなたも生き返ったと思うの」
「何、そんなことがあってもおかしくはない、と思っただけだ」
「そう……」

 ひらりと、一人と一羽のあいだに花びらが降ってきました。桜が散り始めているのです。

「私は勝手にこう考えてるんです。あの子、冬を越せなかったミツバチの思いそのものなんじゃないかと」
 アオサギは何も言いません。
「冬の寒さはミツバチには酷なもの。養蜂家はなるべく多くのミツバチが冬を越せるように力を尽くす……だけど、取りこぼされてしまう子もいるかもしれない。あのね、あの子、メエの作った〈とっておきのみつ〉で目を覚ましたの。それから、どうしたと思う?」
「ふむ」
「泣いたの」

 アオサギは思わず、川で遊ぶミイを見やりました。すっかり元気になったミツバチのお人形は、水にぬれてもお構いなしで、カモの子にちょっかいをかけています。

「きれいな、はちみつと同じ色の涙だったんです」

 子どもたちの笑い声が響き渡ります。
「もしかしたら、メエもミイも、ハンガリーから来たのかもしれませんね。ミツバチたちの思いを背負って」

 アオサギは店主の声に耳を傾けながら、こう思っていました。
 あの姉妹はきっと、この先で、故郷の景色を見るだろう。自分と彼女らと、どちらが先だろうか……。考えていると、なんだか愉快になって、アオサギはつい、ふ、と笑みをこぼしました。

「あら、アオサギの親分が楽しそう」
 店主も微笑みます。うららかな花の季節は、もうしばらく続きそうです。

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