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人の属性にまつわる昔話を4つ(アンデルセンや御伽草子)

最近、注目をあつめているマルクス・ガブリエルという1980年生まれのドイツの哲学者の本『世界史の針が巻き戻るとき』のタイトルを見て、この人の見ている「世界史」とか「世界」って、いったい「誰の歴史」で「どの時代へ戻る」と言っているんだろうと、すごく興味が立ちました。

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『世界史の針が巻き戻るとき』 「新しい実在論」は世界をどう見ているか
PHP新書 マルクス・ガブリエル 著 (訳:大野和基)


どんな国や地域の人もそれぞれに「世界の見方」のベース(世界観や歴史観)を持っています。そのベースは自分と同じであるところもあるでしょうし、違うところもあります。なのでそのことに注意せずに、何の気なしに読むと、こんがらがるんです。

「すごく新しくて難しいことを言っている」と思ったり「当たり前のことをどうしてこんなに大げさに言うんだろう」とか思ったり。それが混在すると、論旨を見出しにくいのです。その上、日本語に訳されているものを読むので(私は日本語訳でしか読むことができませんから)日本語に訳した人の「そのあたりの留意具合」にも、大きく影響されてしまいます。

マルクス・ガブリエルは、かつての西ドイツの首都であったボン大学の教授ですので、読む前に「ヨーロッパの『世界の見方』がベースにあるのだろう」と予想をしていました。

でも、第1章に「十九世紀に回帰し始めた世界」とあったのを見て、全身身構えたのです。「どこまでニュートラルになったら」「どこまで先入観をなくしたら」読めるんだろうと。だって、東アジアの人にとっての19世紀は、「ドイツ以外の」ヨーロッパの列強が東アジアに向かって戦略的に「やってきた」世紀でしたから。

そこを、ぐっと耐えながら分け入ろうとすると、ヨーロッパが相対性理論や量子力学の驚愕を超えて、向こうの方法(西洋哲学)で、仏教に馴染みのある人にとってはある意味「あたりまえ」の世界観を、現実社会にあてはめて喝破しようとしていることにぞくぞくしました。

最新のITの世界、例えば「クラウドネイティブアーキテクチャ」や「AIのニューラルネットワーク」に見られる「サイバネティクスの科学」や「量子コンピュータ」のベースとなる「量子力学」は、大乗仏教(そこから派生した華厳密教)の思想と似ている部分がとても多いのです。ただ決定的に違うのが「目的(欲)」が第一番になってしまう部分かもしれません。

欲とか見栄とかって、生きている実感として生々しいものですが、それと関わるのが「属性」という概念だと思います。属性って、「何に分類されるのか」とか「何に所属するか」とか「何と評価されるか」とかの「何」の部分です。


◎ 生まれた瞬間からくっついてくる「属性」のこと


属性は人が人間であることと深く関わっていて、「おぎゃあ」と生まれた瞬間に人はまず「性別」が認識されます。そして間もなく人間としての「名」がつけられて、家族、学校、会社、コミュニティといった組織に所属したりします。また父、母、長女、従兄弟、委員長や新入社員とかの立場に分類されたり、徒競走での順位や偏差値といったラベルがついたり、いわゆるキャリアというのも、みんな「属性」です。「ぞく」という言葉の、家族、部族、種族、民族の「族」や、山賊、海賊、馬賊の「賊」の「ぞく」も、俗世の「俗」もすべて「属性」です。

そしてこれは、ホモ・サピエンスが「世界を認識」したことと直結しているのですが、全て人間同士で「勝手に決めてきた」ことなのですね。だって、キリンは「キリン」なんて、知らぬ存ぜずなのです。

そういった「属性」のことをつらつら考えていたら、ペローの『長靴をはいた猫』と、今昔物語の『わらしべ長者』が一緒に浮かんできました。他には『はだかの王さま』と『ものぐさ太郎』。こうして並べると、ヨーロッパでは「着るもの」が一番くっつく属性で、その他に日本では「旅」が属性に深く関係するようです。


◉ 『はだかの王さま』 アンデルセン童話集 


属性が「実」から「虚」へ

「だけど、なんにも着ていらっしゃらないじゃないの!」と、だしぬけに小さな子供が言いだしました。

王様や大人たちが「実」だと思おうとしていたことが「虚」となった瞬間。だれもが羨やむ「王」という属性すらも儚いのです。

改めて読むと、インチキ機織りの「誰も『違う』と言えない状況」の作り方がすごい。「すばらしい着物です」という「誰かにとって都合のいい勝手な見方」をもとに、いろんなことが「本当のことらしく」なって、お金が動いたりするんです。
でもなにも着ていなければ王さまの中身が丸見えになって、ある時突然はじけてしまう。バブルのように。

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『マッチ売りの少女』「はだかの王さま(皇帝のあたしい着物)」
アンデルセン(矢崎源九郎/訳) 新潮文庫


◉ 『長靴をはいた猫』 ペロー童話集


属性が「虚」から「実」へ

「カラバ侯爵さまのものでございます」と百姓たちは声を揃えて言いました。猫におどかされていたので、こわかったからです。

気の利いた贈り物を届けてくれるあの「カラバ侯爵」だという、川で溺れていた裸の若い男は、立派な服を着せると、立派に見えました。そして目にするものを「カラバ侯爵さまのものでございます」と聞かされるうちに、お姫様は本当に「カラバ侯爵」に恋してしまったのです。

猫が長靴を履くことで不思議な力を発揮して、何も持たない男(なんの属性もない男)に「言葉と物」をくっつけて、「虚」を「実」にしてしまいました。

だからファッションは、なんといってもまずは「靴」なんです。

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『長靴をはいた猫』シャルル・ペロー 澁澤龍彦 訳 河出文庫


◎ 虚実は同時で、虚も実もない『般若心経(はんにゃしんぎょう)』


いったい何が運命の分かれ道なのでしょう。
王様も若い男も「裸」なんです。一方は一番と思われる「王」という属性を持っているにもかかわらず。で、もう一方は猫以外受け継いだ財産(属性)が「ない」とふてくされているにもかかわらず。なのです。

ヨーロッパは虚と実の関係を、二つの物語として語り分けているのですが、般若心経が「色即是空。空即是色」と唱えて、両者を同時にみていることや、禅のことを、ヨーロッパがちゃんと知ろうとし始めたのは20世紀になってからです。(「色」は実、「空」は虚ですね)

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『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』


それまで「異教徒の魔術」のように思われていたことが、大いなる当惑を伴いながら最新の物理科学として「相対性理論」や「量子力学」が発見されたことをきっかけに、ヨーロッパでの見方に変化の兆しが生まれたのです。

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なので、冒頭にあった本の中でマルクス・ガブリエルは、彼が提唱する「新しい実在論」の姿として「現実は一つではない」と語ったり、「日本人は「世界が存在しない」ことを容易に理解できる」とか、言っているんですね。


◎ 漂泊こそ本流。俗世から離れたい人たち


般若心経』や「禅」や「量子力学」的に「世界が存在しない」ということを、日本人がどんな風に理解しているかどうかは別にしても、それなりに「属性」のことについては「属性のない身」という意味で、1000年ぐらい前から注目していたようなのです。つまり「無縁」や「漂泊」や「出家」みたいに。

伊勢物語』の昔男(在原業平)の「東下り」や『源氏物語』の光君の「須磨・明石」の話は、「やむなく出て行った」という感じが濃ゆいのですが、西行の登場以降、芭蕉に至るまで、もしかしたら『男はつらいよ』の寅さんも、「定住と漂泊」の「半分半分」を心に願い、積極的に「属性のない人」となりました。

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『読みなおし日本文学史 -歌の漂白-』高橋睦郎 著 岩波新書

「漂泊こそ本流」。四季折々の漂泊の旅先で偶然に出会う景色を、自らの心の景色に重ね合わせて、心が動くこと、心が感じるままに歌にする。属性をなくし、漂泊することで、「どこへでも自由に行ける心」を実感してきたのです。
また、日本列島はそんなに広大な地ではないので、流浪とかノマドほどのサイズ感ではないのですね。「漂泊」がいい。そこは大きなポイントで、「スモールワールド」となった今の地球環境では、むしろいい塩梅なのかもしれません。


◉ 『わらしべ長者』 今昔物語・宇治拾遺物語


属性のない人が、プチ漂泊の果てに定住へ

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『わらしべ長者』日本民話選 木下順二 著 (岩波少年文庫) 

わらしべ長者』の原話は、『今昔物語』と『宇治拾遺物語』の中にあります。平安から鎌倉時代にかけて12〜13世紀の頃に集められたお話の一つです。

『わらしべ長者』の話は、それぞれ
 「参長谷男依観音助得富語」
 「長谷寺参籠の男利生に預かる事」
という題がついていて、
「長谷寺に参籠した男が、観音様の助けで、富を得た(利生に預かる)話」
という内容です。

『今昔物語集』巻16第28話 参長谷男依観音助得富語 第廿八 原文

冒頭まず最初に、男の「属性」のことが語られます。この「青侍」といわれる男には家族や知人がいなくて、京にいること以外「属性」がほとんどない人のようです。
*青侍(あおさぶらい):青い(若い、未熟な)さぶらい(身分の高い人のちかくにいる)

以下、上記サイトより引用させていただきます。

今昔、京に父母妻子も無く、知たる人も無かりける青侍有けり。長谷に参て、観音の御前に向て、申して云く、「我れ、身貧くして一塵の便無し。若し、此の世に此くて止むべくば、此の御前にして干死(ひじに)に死なむ。若し、自然ら少の便をも与へ給ふべくは、其の由を夢に示し給へ。然らざらむ限りは、更に罷り出でじ」と云て、低(うつぶ)し臥たり。
『今昔物語集』巻16第28話 参長谷男依観音助得富語 第廿八

そして青侍の男は、観音さまに向かって云います。「然らざらむ限りは、更に罷り出でじ(そうじゃない限りは、ここを動かないよ)」と観音さまに対して結構強気な態度に出ます。この男は「属性がなく」て、なにか「努力をする人ではない」のです。たぶん、当時の世の大多数を占める人を代表していると思われます。

そしてこの男が、奈良の長谷寺の門を出て京へ戻る道すがらに出会う「偶然の幸運の連続」はよく知られていますが、最終的に「馬」を得たあとに、京の手前で男の前に最後に現れたのは「物へ行むずる様」の男でした。

九条渡なる人の家を見るに、物へ行(ゆか)むずる様に出立ち騒ぐ。
((京都の)九条あたりの人の家を見たら、物へ行こうとしている様子で大騒ぎしている。)

この九条の男は、「何処かへ行こう」と居ても立っても居られない様子なのです。「物へ行(ゆく)」という言い方をしていることが、興味深いのですが、こうしてわらしべ男は、馬と土地を交換して、長者になりました。


◎ 属性を失うと物語になる


以前に、物語を書き始めた知人が「属性を失うと物語になる」と言っていました。「物語」という言葉は、平安時代の古い文章に「物の語り」と書いてあって、虫や鳥や道具とか人ではないモノが語る話のこととあります。

日本では「属性のないもの」の語りが物語の起源だったようです。西洋でも、さっきの『はだかの王さま』と『長靴をはいた猫』のお話のように、属性の在りかが物語の発端になっていました。

人間は人の間と書くので、他者との関わりのあり方を表す「属性」は人間の宿命みたいなことかもしれません。ですので、その属性がなくなるということはすなわち「モノ」になる。ということなのかもしれない。

それが「無縁」ともつながっていくのでしょう。

わらしべ男は、何も持っていないところから田(家付き)を得て長者になりました。属性をもって定住の身となったのですね。一方の九条の男は、土地という属性を手放して馬で旅に出てしまいました。

この九条の男が、どうしても「物へ行きたい」と大騒ぎしていた理由が気になりますが、でも、いいんです。

こんな風に日本の昔の人はわりと身軽に属性を手放したり、交換していたことがわかっただけで、実際に、無縁にならなくても、気持ちは属性にとらわれないでいられそうで、すごくゆるい気持ちになります。


◉ 『ものくさ太郎』 御伽草子


属性もなく、漂泊もせず

今昔物語からもう少し時代が下って、室町から江戸時代にかけて語られた短編の「物語草子」というジャンルの一つに、『お伽草子(おとぎぞうし)』という物語集があります。お話には絵がついていて、思わず「ひゅ〜♪」と云いたくなるような話が集まっています。

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『御伽草子 (上)(下)』市古貞次校注 岩波文庫
『お伽草子』福永武彦 永井龍男 円地文子 谷崎潤一郎 訳 ちくま文庫
『お伽草子』太宰治 新潮文庫

中でも、『ものくさ太郎』です。この男は、属性はなくて、それでいて別に漂泊の旅に出たりはしないんです。ずっと寝てる。

「ものくさ」は「物くさ」と書きますが、ここも「物」なんですね。「ものくさし」(面倒くさがる)から来ています。「物」がゴロゴロしている感じです。

東山道みちのくの末、信濃国十郡のその内に、筑摩(つかま)の郡あたらしの郷といふ所に、不思議の男一人侍りける。其名を物くさ太郎ひぢかすと申し候。名を物くさ太郎と申す事は、国にならびなき程の物くさしなり。ただし名こそ物くさ太郎と申せども、家造りの有様、人にすぐれてめでたくぞ侍りける。
『御伽草子(上)』「物くさ太郎」 市古貞次校注 岩波文庫

ここでも冒頭に主人公の男の属性が語られます。今までと違うのは、名前とともに、彼の「」が語られます。この人は、ものぐさで、人並み優れた能力(家造りの技)がある。というのです。

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『御伽草子』「ものくさ太郎」やまだ紫 中公文庫

何もしない太郎に対して、村の人々は仕方なく食べ物を与えたりして養っていたのですが、ある日、村人たちが言います。これまで3年間の「養い」の代わりに村を代表して都での「御公事(みくじ)」をしてきて欲しい。と。これに対して太郎は難癖をつけるのですが、「都に行けば妻を得られるよ」という村人の一言が決定打となって、その話に乗ってしまいます。

こうして、ものくさ太郎は、都へ行って、奉公を終えて、素直な努力の末に妻も得られて、めでたしとなるのです。

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『御伽草子』「ものくさ太郎」やまだ紫 中公文庫


なんかこう、飄々と、誰がなんと言おうとも、自分の好きなことだけが得意ごとになって、自分が「!」と思うトリガーがあった時にだけ、動く。

で、いいのかなぁ。と


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自分の「属性」や「能」に囚われず、でも愛おしんで。
その上で自在に着いたり離れたり、いつでも着けたり離したりできることが「自由」なのだと、このごろ思います。



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