見出し画像

立体視の秘密。心がゆるんで、モノが愛おしく。

このごろ、街を歩くときにすごく意識していることがあります。
それは、建物や街路樹を立体視で見ること。

それができるようになったのは半月ほど前の2月19日の夕方のことなのですが、ちょうどその日の朝、「チルト撮影」というものを知りまして、それが傾けて撮影することで、そのことで「あるギャップ」が生まれるとあったのです。

ギャップといえば「両目はそれぞれ見ているものが微妙にずれている」ことを思い出しまして、その時、漫然と見ていた目の前の二つのビルを、手前のビルの輪郭に意識を向けてくっきり見えた瞬間に、「近くのビル」と「向こうのビル」がちゃんと奥行きをもって立ち上がったのです。

それはまるで、見え方の相転移。
ビルが地面からすくっと立ち上がる姿を見るようなのです。

画像1

紅梅の枝にカメラのピントを合わせるように、対象物をくっきり見る


「近くのビル」と「遠くのビル」が、同時にはっきり「近く」と「遠く」に見える!

これはとてもワクワクする体験で、いままでいったいどんな見方をしていたんだろう。でも、今気がついてよかった。と心から思いました。

人間に両眼が前方を向いてついていることは、2つのカメラで見ているということで、それは3Dのしかけでもあるらしいのですが、そのことがあんまり自分の中で結びついていませんでした。

画像2

表参道のエルメスのポスター(エルメスオレンジとブルーの二色の線画)

近くから遠くへの「奥行き」を、その間も地続きに視覚すると、不思議なことに、心景がとても広がるのを感じます。心が軽くなります。というか、心がゆるくなります。
そして、そのモノが生きているように見えます。まるで命が宿っているように。

専門的には、「両眼網膜像差にもとづく両眼立体視」というらしいのですが、三木成夫(著)の『内臓とこころ』に「二重映しのできる脳」というくだりがあります。それが空間認識を生み、それが心景(心に映る景色)の空間を生んだのですね。

画像3

この「二つのカメラを持っている」ということが、「二つの異なったものを同時に見る」ことを可能にして行ったのですね。
すなわち「近くと遠くを同時に見る」ことが空間認識を生み、「過去と今を同時に思考する」ことが時間認識を生んだのだと思います。つまり、ヒトが立ち上がってその二つの目で世界を見たことが、すべての始まりだった。

画像4

振り返ると、これまでそんなことを全く気にしていなかったので、景色を無意識に遠近感なく平面的に見ていたように思います。

でも、実はそれは心の持ち様にもすごく関わってて、物事の奥に分け入りたいなら
実際の景色をまず立体視しないといけないみたい。

***

そして、修験道が険しく連なった山奥で修行するのは、心身極限の状態において、実景として、水平垂直にとても広く深い空間に身を置き、立体視を鍛えているのかもしれない。と、ふと思いました。

吉野の奥の大峰からはるか南方に見える熊野との境の山並みは「果無山」(はてなしやま)と呼ばれています。

熊野 大峯奥駈道からの果無山脈

いつかは行きたい熊野。
大峯で体感する空間の広がりは、壮大な心の持ち様をもたらして、それはきっと何物にも替え難いものだと思う。

だけど、普段の身の回りのいつもの景色でも、意識を向ければ、立体視を感じることができ、モノを立体的に奥行きを持って見ることができます。

画像5

庭園の木々は森の疑似体験(青山 根津美術館)


それは精神的な努力とか根性で獲得するものではなくて、「ヒトの目」が元々持っている機能であることを、忘れないようにしたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?