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「ざわつく日本美術」を「ざわつく日本DX」に

先月、サントリー美術館のこの展覧会のポスターを最初に見た時に、すごく違和感(ちょっと居心地の悪い感じ)があったのですが、8月になって「ざわざわすること」を恐れてはいけないかも。と思い、行ってきました。(久しぶりに着物も着たかったし)


美術館のスタッフの方が「一部を除いて写真撮影OKです」と声をかけてくださったので、「ざわ」っとしたものをいっぱい撮ってきました。

展覧会で写真を撮るのは、「捕る」とか「獲る」とか、もしくは「盗る」とかの感覚です。

展覧会の構成は

プロローグ
第1章 うらうらする
第2章 ちょきちょきする
第3章 じろじろする
第4章 ばらばらする
第5章 はこはこする
第6章 ざわざわする
エピローグ


最初にドカンときたのが 本阿弥光悦の『赤楽茶碗 銘 熟柿』の「うら」

ちょっとプラスチックぽい。ポップなそのままのオレンジ系口紅とも思えるこの色。当時は珍しかったのでしょうか、それともよくある色だったのでしょうか。なんとなく微妙な心持ちのまま手にとって、裏を見たときに「柿だ!」って直感したのでしょうね。

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本阿弥光悦『赤樂茶碗 銘 熟柿』 (江戸時代17世紀)

誰かが「塾柿」という名前をつけたと思うのですが、それと本阿弥光悦は「塾柿」を焼こうと思ったのかは語らなかったと思いますが、とにかくこれを「熟した柿」と思った瞬間のその人の心の動きが追体験できてしまう、いままでにない展示。

展示台が透明になっていて、下に鏡がおいてあるのです。

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日本語の古語で「うら」は「心」
*【うら】 原義は表面に表れる表に対する裏の意。心。内心。思い。(旺文社 古語辞典より)


第1章は、ひっそりと隠れている「こころ」(大事な芯)を見せる展示にあふれています。

そんな視点で言い換えていくと、各章の展示もみんな、「ざわつく日本」のメタファーになっているようで、展示を見進めるうちに、これからの視点の方向に、ワクワクする力をもらう気分になっていったのです。

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『多賀社参詣曼荼羅』(室町時代16世紀) 屏風の 月寛「懸想文売り図」

*懸想文を売る男もしくは女。後ろに文の在庫がおいてあります。筆は持っていないようなので、事前にいくつかのパターンのものが用意されているのでしょう。それから、文を結わえるための梅や松の縁起のいい枝も携えていますので、文の価値を高めるものとしてとして一緒に売っていたのでしょうね。


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伝 尾形光琳 『秋草図屏風』白菊の裏 (江戸時代18世紀)

尾形光琳には秋草を題材にした作品がいくつかありますが、この屏風はまるで秋の草花に囲まれるようでした。白菊だけが胡粉を厚く塗り重ねられて本当にぷっくりしています。葉は枯れていますが、花は表面も側面も裏面も命の力が込められています。


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『舞踏図』六面 (江戸時代17世紀)
*屏風を切り分けて一人一人をフューチャー

6人グループが解散したあとのソロ活動のようで、表装を分けることで一人一人のポーズもファッションも際立ってより活き活きと見えます。こういったスタイリングは自分でしたのかなぁ。それともスタイリストがいたのでしょうか。


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病草紙断簡「不眠の女」(平安時代12世紀)

こんなところでこの人と再会するとは思っていなかった。
2年ほど前の私も「不眠の女」で、毎晩「また私だけ眠れなかった」という緊張の中で外が明るくなるのを迎えていました。ちょうどその頃だったと思います。この絵のことを知ったのは。「この人も色々あるんだ」と。その色々が女の口から「どよよーん」と吹き出しているのがみえるでしょうか。これは「じろじろする」の章。


そんなこんなで、写真に撮った作品は36作品。「展示替リスト」に印をつけて、改めて見返してみると、プロローグとエピローグはこんな関係ではないかと仮説が立ちました。

プロローグ 【知らない見方におののく私
↓ ↓ ↓
エピローグ 【いろんな見方をする私

そして、この【プロローグの私】から【エピローグの私】に変身するための、6つの方法(過程)が、6つの章になって展示されているのです。

つまり、自分の知らない見方を拒否している状態から、いろんな見方ができる状態へ。その移行を実現するための6つの方法が展示されている。

これは、今みんなが求めているけど迷っている「変身」(トランスフォーメーション)の鍵になるのではないでしょうか。(と、また嬉しい仮説が立ちました)

プロローグ【知らない見方におののく私】

第1章 うらうらする  (うらを見ることで、心を知る)
第2章 ちょきちょきする(切り分けることで、再生する)
第3章 じろじろする  (細部を見ることで、解す)
第4章 ばらばらする  (ついたりはなれたりできる状態が美しい)
第5章 はこはこする  (外部との境(周縁)が大事)
第6章 ざわざわする  (違和感への懐が深い)

エピローグ【いろんな見方をする私】


そして、シンクロするのがDX(デジタルトランスフォーメーション)。

第1章 うらうらする(うらを見ることで、心を知る) ***
第2章 ちょきちょきする(切り分けることで、再生する)《マイクロサービス》
第3章 じろじろする(細部を見ることで、解す) ***
第4章 ばらばらする(ついたりはなれたりできる状態が美しい)《分散型》
第5章 はこはこする(外部との境(周縁)が大事)《エッジ》《セキュリティ》
第6章 ざわざわする(違和感への懐が深い) ***


モノリシックなシステムをマイクロサービス化することも、集中型システムをどう分散したらいいのかも、エッジが肝であるという感覚も、大切さに見合った保護(セキュリティ)も、みんなことごとく日本の伝統に合っているんです。いや、むしろ得意。お家芸ではないですか。

特に「ちょきちょきする」ことは、古くなった価値を切り分けることで再生させる方法で、そこには相当の目利きと部分に対するリスペクトと実行の大胆さが必要という点でも、今のレガシーシステムからの脱皮することシンクロします。


あとは、*** のところに対して「DXの日本ならではの方法」を見つけるのが、大切になっていきそうです。


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