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踊ろう、歪んだ世界で。

デリーがロックダウンされて27日目。

9歳の長男のイライラは日に日にエスカレートしている。ほんのちょっとしたことで声を荒げて部屋に閉じこもり、布団をかぶってゴロゴロして、出てきたと思ったらまた弟や妹にちょっかいをだしては怒られ、以下繰り返し。本人いわく、夜も寝付きが悪いのだとか。体を動かしたり頭を使ったりすることが少なくなっているから当たり前なのだけれど、そうなると生活リズムが崩れて悪循環が心配だ。

長男と長女は、現在それぞれの希望で別々の学校に所属している。

長女は、休校翌日から始まったオンライン授業にもすっかり慣れ、多少の不自由さや不満を感じつつもオンラインで上手に友達や先生とつながってうまいことやっている。

一方で長男の学校は、明日から開始されることが決まったけれど、この1ヶ月特にオンライン授業はなかった。感情表現が下手くそな彼は、最初こそオンラインで読み放題だった本で満足していたようだけれど、この1ヶ月友達との関わりも一切なく、挙句の果てにオンライン図書館は期限が切れて自由に本も読めなくなり、徐々にイライラを募らせるようになった。

ここ数日は毎日のように私と長男が声を荒げるシーンが繰り返され、いかにお互いの感情を逆なでしないで過ごせるかということが一大事になっている。もはや、このロックダウン生活は長男との戦いだと言っても過言ではないかもしれない。

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だから、このロックダウン日記は、いつかもう少しだけ大人になった長男に捧げる。

夫の在宅勤務

WHO勤務の夫はロックダウンの少し前から在宅勤務になっていたけれど、ロックダウンに入ってからも変わらずフルで仕事をしていて、特に4月に入ってからは日に日に忙しくなっていった。当然だが4人の子供たちは全員家に閉じこもっていて日中面倒をみるのは私だ。家に缶詰で子守を続けて次第に弱っていく私を見て、先週はついに「明日は半休を取るから、、、」とか言っていたけれど、そんなものは実現するはずもなく、それどころか“その明日”には緊急の仕事だといってオフィスに呼び出された。

その後の自宅勤務中にも「緊急の仕事」が一日に5回ぐらい降って湧く。ごはんのときに短時間部屋から出てくるだけで、それ以外はずっと部屋に閉じこもり、ちょっと出てきたと思っても「会議中なのにうるさいから静かにしろ」と注意するためであったり、ちょっとコーヒーを飲んでたと思いきや「緊急の仕事が…」とか「メールを一通だけ…」と言ってすぐに部屋に消えていき、そこから数時間はでてこない。

これは夫の勤務先を考えたら当然といえば当然かも知れない。むしろ今仕事しないでどうする、という立場にあるのが夫の職場だ。

しかし、この在宅勤務形態は、日本で医師として働いていた頃、よく「急に患者さんの往診に行かなくては…」といって度々いなくなったのを思い出す。産後だろうが子どもが体調が悪かろうが食事中だろうが、呼ばれると5分以内に出ていく夫を見送る私の心境は毎回複雑だった。

それが必要な仕事であることは頭でわかっているから、夫を非難することはできないし、むしろ「しっかり仕事してきてね」と見送る良き妻でありたいといつも願っていて、心に余裕のあるときは、少なくともそう演じてはきたつもりだ。それでも夫を見送った後に泣き声をあげる子どもたちを見ると、いつも、一抹のやるせなさが残った。

転職でインドにきてオフィスワーカーになったことで、そういう「急な呼び出し」的なものから解放され、晴れて夫婦でゆったりと4人の子育てが出来ると思っていた。むしろ個人的には、半分それが目的でこの転職を好意的に受け入れたとも言える。ところが1年半も経たずにまた降って湧く「緊急の仕事」に振り回される在宅勤務になり、これがボディーブローのようにじわじわと私の精神を蝕んでいる。

しかも今度はで呼び出されて何処かに行くのではなく、緊急といってもたいていは家の中にいる。すぐ隣の部屋にいるにもかかわらず子守のヘルプをしてくれない夫の存在というのは、結構堪える。むしろ在宅じゃないほうが気持ち的には楽かもしれない。リモートワークとかテレワークとか言うと、なんだかすごく先進的で聞こえはいいけれど、ただ単に仕事をする場所が家になっただけなのだとしたら、今までの勤務と一体何の違いがあるというの。

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殿。
子どもを家で見るのであれば、夫にどうか、休みをください。こんな形の在宅勤務は、家族にとって、マイナスです、殿。少なくとも子供たちそれぞれに、適切なオンライン教育もしくは課題を学校という箱から発信していただけたら嬉しい。一人で子供たち全員の面倒を見るのはもう、息切れがして動悸が止まらないのです、殿。
母親代表より。

やり場のない怒り

普段は基本的に平和で仏のハルが、なぜだかこの日はご機嫌ナナメだった。お昼前後にオンラインのST(言語聴覚療法)セッションとPT(理学療法)セッションが予定されていて、準備も万端だったのだけれど、STセッションの時間が押してランチタイムにかかり、空腹になったハルは久々に制御不能なくらいに怒った。

夕食を食べさせ始めても、ちょっとした咳で不機嫌になって泣きじゃくり、せっかく食べさせた夕飯を全部戻して再び制御不能になった。苦しそうな声をだして全部吐いたのに、下で遊んでいる子供たちは誰一人それに気が付かず、壁を隔てて隣の部屋で仕事をしている夫も助けてくれる気配もない。私は我慢できずに夫を呼んで、最低限のヘルプをしてもらった。(夫はすぐに仕事に戻った。)

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夕食の時間帯になり、空腹を感じつつも、延々と泣き続けるハルを抱きかかえて、ホトホト疲れ果てていたところに、喧嘩をした長男と長女、そして泣きながら何かを訴えるレンチビがやってきた。何が何だかわからないし、もう喧嘩とかどうだっていい。ハルが泣きつかれて寝入ったところで、お腹が空いてどうにも力がでないから、とにかくご飯にしよう、と言って食事の準備を始めた。しかし一向に手伝う気のない子供たちに、私はイラっとして「いい加減にしてよ!」と怒鳴った。
すると長男、「なんだよ!もういいよ!」とその日何度目かわからない逆ギレをして、本を1冊持って部屋にこもろうとした。

ここで私の堪忍袋の尾は完全に切れた。

おい。
おいおいおいおい、待てよ長男。
おまえじゃないだろう。こもるのは。怒って部屋にこもりたいのはこっちなんだよ。

布団から無理やり長男を引きずり出し、手に持っていた三国志を剥ぎ取って思いっきり投げつけた。

怒りたいのもシャットアウトしたいのも私の方だ。こもるな。お前がやれ。お前が夕飯の準備して、ご飯をちゃんと食べろ。
私はご飯はいらないから、お前がレンチビにもご飯食べさせろよ。いいか。もうあとは知らないからな。毎回自分だけイライラをぶつけていいと思うなよ。ふざけるな。

そう言って長男をキッチンに押し込んで、私は寝室にこもってドアを締めた。レンチビが瞳をうるうるさせながら「マミーアイラブユー、アイラブユーマミー」と諭すように追いかけてくる。私の尋常ではな勢いに、ふてくされていた長男は明らかに戸惑いながら目をしばしばしていた。もちろん一部始終を夫は仕事をしながら聞いていたはずだけれど、微動だにせず仕事をし続けていた。

私は感情がコントロールできなくて、悔し涙が溢れ出た。夫が忙しいのは分かる。仕方ない。むしろガンガン仕事すべきだ。

じゃあ、私は何に怒っているのだろう。何を恨んだらいいのかわからない。私は今、何と戦っていて、私の敵は誰なんだ? 戦いの相手は長男なのか、夫なのか、在宅勤務なのか、COVID-19なのか。

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自分勝手に怒りをあらわにする長男と、壁を隔ててすぐとなりにいるのに助けてくれない夫を思い浮かべては、でも誰も非難することはできなくて、やり場のない怒りを持て余して悔しくて泣いた。

子供たちはコソコソと何かを相談しながらも、作ってあった肉じゃがを盛るカチャカチャという音が聞こえてきた。1時間もすると、明日の朝用に仕込んだパンの一次発酵終了のタイマーが鳴り、まもなく眠っていたハルが起きたらしい声も聞こえた。
しばらくするとハルの声が泣き声に変わったので、私は仕方なくムクリと起き上がってドアをあけると、、、、
夫はまだ仕事をしていた。

ものすごい徒労感を覚えながら、ハルを抱きあげ、この日5回目の食事を与える準備を始めた。(さっき全部吐いちゃったから)
なんだろう。
これだけ怒って泣いて1時間たって出てきても、夫は何も変わらず仕事をしているという事実。
私の怒りの無駄感、半端ない。

夫の名誉のためにいうと、特に夫に悪くはない。彼は普段どちらかというと私よりもずっと気がつく人で、何もなけれ家事育児もやる方だ。その大変さも十分にわかっているはずで、それでも目の前にそれ以上に優先させなければいけない仕事があるということだと理解している。今はそういう状況なのだということもわかっている。

だからこそ、私のやるせなさや怒りは行き場を失い、余計にくるしい。
せめて誰かこの怒りにタイトルをつけて、ダンスや音楽やイラストをかぶせてほしい。(星野源さんのパクリです)

星野源さんのこのプロジェクトは、音楽を通じて誰かとつながり、前向きに生きようとメッセージを投げかけてくれた。温かく、でもとても大きな力で。みんな苦しいけど、それぞれに耐えて、なんとか前向きに生きようとしているはずだ、そう思わせてくれる。

寝る前に「#うちで踊ろう」の動画をみながら感情を落ち着かせ、同じように在宅勤務に苦しむ境遇の人達に思いを馳せて、眠りについた。


怒りと不安の着地点

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ほんの3ヶ月前、もう何度目かわからないシーク教寺院を訪問した際の写真だ。そこでは相変わらず毎日1万食もの食事が無償提供されていて、ボランティアで調理をする人たちが笑い合っていて、案内してくれた顔なじみのターバンおじさんも誇らしげに何度も聞いたうんちくを話してくれた。

当然ながら、今は閉鎖されているに違いない。宗教的な拠り所も、文字通り食いつなぐための依り何処をも失っている人は多いだろう。

コロナショックで職を失い、飢えるインドの貧困層の実態は、きっと想像を絶するのだろう。お恥ずかしながらきちんとした情報源を元に実態を把握するすべを持っていない。

インドに限らず、世界中で経済的に困窮する人々。表現する場や活躍の場を制限されるアーティストたち。家庭に居場所がなく、あえて感染の危険に自分を晒す痛々しい若者。家に引きこもることによって深刻化するDVや虐待の実態。

様々な二次問題が指摘されている。そういう深刻な問題に比べたら、私が置かれている状況は大したことのないことだ。それは多分、ありがたいことに私には信頼し合える家族がいて、経済的にも恵まれていて、喧嘩をしたりぶつかったりしながらも、愛のある生活ができているからだと思う。

それでもなお、日々の荒波は、ここ数ヶ月での急激な変化からくる歪みを感じ取るには十分だ。

なんだか歪んでいる。今、この世界は。ぐにゃりと。
何かがおかしい。

命の危険にさらされながら現場を支える医療従事者。と、その家族。
この状況下でも仕事をし続けねばならない人たち。と、その家族。
逆に仕事を失ってしまう人たち。と、その家族。
加えて、家庭内に居場所がなくなったり関係がうまく維持できなくなって孤立化してしまう人たちの状況は想像を絶する。

このぐにゃりと歪んだ世界のなかでみんなが感じる怒りや不安は、一体どこにむければいいんだろう。

ウイルスそのものに向ければよいのか、歴史、政治、科学といった、人間が積み上げてきたものに向ければよいのか。しかし、地球とか宇宙とかいうレベルで考えたら、おかしいのはもしかしたら、おかしいと感じる私達の方かもしれない。

少なくとも、今まで関係を作ってきた家族や友人や、特定の人間や国に向けるべきものではないことは確かである。

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今、あなたを抱きしめる事はできないし、あなたの手を取ることもできないし、あなたの声を直に聞くことも、あなたの耳元で何かをささやくこともできないけれど、それでもやっぱり、なんらかの方法で、私達は人間である限り、誰かと、社会と、世界とつながっていることを思い起こしながら生きることでしか、この怒りや不安を乗り越えられないだろうと思う。

星野源さんの「#うちで踊ろう」は、誰かを敵に回したり、誰かと対立するのではなく、自分たちの内面を揺さぶってのりこえようよ、そしてそれを通じてみんなでつながろうよ、という、実はすごく本質をついた、希望の取り組みだと思う。

前回の記事で、星野源さんの文章をたまたま引用していたのだけれど、再掲する。

「生きた証や実感というものは、その人の外的行動の多さに比例するのではなく、胸の中にある心の振り子の振り幅の大きさに比例するのだと思う。」

その後この「#うちで踊ろう」のプロジェクトが広まって、改めて、ぶれない彼のの哲学に触れた気がした。ありがとう、源さん。

この歪んだ世界で、怒りや不安を鎮める方法があるとすれば、それは、自分の心の振り子を振るための何かを見極めること、そしてできれば、それを通じて誰かと繋がること。

WHOの対応を巡っては批判もあるようだけれど、「つながることでしかこのウイルスには勝てない」と言ったテドロス事務局長の言葉は、とてもよかった。

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踊れ、歌え

ロックダウン中、子供たちの世話に追われて時間がないから、しばらく文章を書くのはやめようと思っていたけれど、むしろそれが私にとっては不健康の元だった。かえってイライラを招いていた。

「あなたはなんで書きたいの」と少し前に夫に問われて、はて、と答えに詰まってしまったけれど、今は少し分かる気がする。私は書くことを通じて誰かと繋がりたいと思っていたのだ。そして書くことを通じて、自分と、つながった誰かの心の振り子を揺さぶりたいのだ。

たぶん、そういうことだったんだ。前回の記事で問いかけておきながら、自分がわかっていなかった。

書こう。

源さんが家で歌ったように。それに共感した沢山の人が、歌って踊ったように。私は歌もダンスもできないけれど、書くことはできる。別にプロのライターでも作家でも無いけれど。それでも書き続けよう。私の文章は源さんのギターだ。書こう。こんな時だけど。こんな時だから。多少子供たちを放置しても、睡眠を削ってでも、自分のために、自分とつながっている誰かのために、自分が生きるこの世界のために、書いていよう。

歌うことでも、楽器を演奏することでも、踊ることでも、絵を描くことでも、書くことでも、本を読むことでも、料理をすることでも、なんでもいいのだと思う。あなたがそれだと思うことなら、それは星野源のギターになり、歌声になる。

あなたのそれは、何だろう。

私は書く。
そしてつながろう。つながりたいよ。つながってください。


最後に半熟ファミリー最新映像をどうぞ。

Stay Safe!


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