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インドでロックダウン生活


世界的に感染が拡大している新型コロナウイルス(COVID-19)。

WHO勤務の夫が、年明けに「中国が大変だ」と言っていて、「え?なにそれ?何の話?」と聞き返したのが、ほんの3ヶ月前。

2月12日にはWHOが新型コロナウイルスをCOVID-19と名付けたことを発表。

私「corona virusからとったであろうCOVIははわかる。2019年からとったであろう19も分かる。けどDって何?Dいるの?」

夫「え・・・と、diseaseのDなんだって」

私「え。なにそれダサいね…」

夫「すいません…」

1ヶ月ちょっと前はまだこんなのんきなことを言っていた。

2月の頭にインド南部のケララで3名の陽性患者が確認されて以降は国内での感染拡大はしばらく見られず、COVID-19の封じ込めに成功したかに見えたインドだったのだけれど、3月に入って急速に状況が変わった。

3月2日
インドの首都デリーで、初めて新型コロナウイルス患者が確認された。
以降感染が拡大。

3月6日
政府の命を受け、急遽デリーにあるプライマリースクールが月末までの休校を決定。ここから我が家では、子供たちと母の実質軟禁生活が始まった。

3月19日
20:00にモディ首相が演説をし、22日(日)のJanta Curfew(外出禁止令)が言い渡された。

3月22日
23日(月)からの月末まで、デリー他いくつかの自治体でロックダウンが言い渡された。

3月24日
再び20:00に首相が演説し、25日から21日間インド全土をロックダウンすることが決まった。

こうしてデリーの我が家では、実質3月6日から軟禁生活が始まった。

能天気なロックダウン生活

私達は最初から脳天気だった。急な休校の決定も、急なロックダウンの言い渡しも、まあインドだからな、と思えた。日本だったらきっと不満で爆発したであろう状況でも、「まあインドだから」「ミラクルが起こる国だから」と飲み込めるから不思議。

しばらく家に閉じこもっていなくてはならない、となってまず私が考えたのは、せっかく家にずっといるんだから、ちゃんと料理をして美味しいご飯を食べよう、ということだ。

美味しいもの=高級なもの、とは限らない。丁寧に料理をすれば、美味しいものの可能性は無限大だ。朝は毎日パンを焼き、手作りしたいちごジャムやチーズと一緒に食べる。レンチビが「ピンクのドーナツが食べたい」といえば、ビーツをすりおろしてドーナツを揚げる。ずっと食品庫の奥に仕舞い込んであった大豆で、フライドビーンズを作っておつまみにする。夕食は家族の希望を聞き、限られた食材で出来るだけ今まで作ったことが無いものにもチャレンジ。

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決して豪華な食材を使っているわけではないけれど、私達は食べることを相変わらず楽しんでいて、そしてこれは結構大事なことだと思う。

今ではロックダウン直後の流通の混乱も徐々に落ち着きを取り戻し、食料もまあまあ手に入るし、惜しみなく料理が出来る。そんなわけで、毎日子供たちが何かしら引き起こす事件に踊らされてはいるけれど、割と脳天気に生活できているのは、みんなでいつも美味しいご飯を食べているからだと思う。

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レンチビの餌を飲み込んだ長女

そうはいっても、ロックダウン後は頼りにしていたドライバーさんもお手伝いさんも当然通ってくることが難しくなり、私の家事と育児は毎日果てしない。

上二人のホームスクールを維持するのにもそれなりの努力が必要だし、レンチビは兄と姉に遊んでもらえるのが嬉しいのか、これをきっかけに学校(プレイスクール)には二度と行かないと言い出して、好き勝手過ごしている。ハルはなぜかすぐにお腹が空いてしまう病気にかかり、しょっちゅうご飯をおねだり。(もちろん毎回全介助)

こうして、デリーロックダウン5日目、実質我が家のロックダウン22日目、
我が家で大爆発がおこった。(感染ではない。)

午前中に決めていた時間割を、この日は長男も長女も集中してこなすことができなかった。まあなんとなく夜更かし気味になって体も疲れているというのもあるし、ストレス溜まるのもわかるよ、と思い、今日はやめて遊ぼう!と誘うも、長女が珍しくぐずぐず。ソファにねころんで大声を出して何を言ってもきかない。

夕方には長男と長女がくだらないことで喧嘩を始め、いつも僕(私)ばっかり怒るじゃん、と大声で泣き出すので、私の怒りも爆発。

ふ・ざ・け・る・な!
どっちだけ贔屓してるとかどっちだけ怒るとかあるわけ無いだろう!4人とも同じお母さんの子供で、同じだけ大事なんだよ!悪いことすれば怒るし、いいことすれば褒めるし、全員大事!!!マジふ・ざ・けん・な!

ゼェゼェ、、ハァハァ、、、。
(ちなみにこの時私、ベビズをお風呂に入れる直前で素っ裸)

うん、私もストレス溜まってたよ。流通がだいぶ縮小している現状を鑑みて万が一のことを考え、大量に料理しては冷凍し、こどもの宿題作って丸付けしてチビの相手をしてハルのご飯をつくって食べさせて、時間ができたら体操(リハビリ)して。

もちろんWHO勤務のパパは大忙しなのでこんなに大声で私が怒ってもお部屋でお仕事していて特にコメントなしのは仕方ないですよ、ええ。

なんとか皆気持ちを落ち着かせて風呂にはいり、じゃあ夕飯にしよう、となったところでダメ押しのもう一騒動勃発。

「ぎゃあああああ゛あ゛〜〜〜〜 がは〜〜〜」
聞いたこともないような長女の叫び声。

すぐに駆けつけると、長女、口を大きくあけ、喉をおさえて今にも泣き出しそうだ。
(ちなみにこのときも私、風呂上がりで素っ裸)

「マーマ!(涙)レンがペンの蓋を私の喉にぶっこんだ!」

え?何言ってるの? 

すぐには意味がわからない。喉をひとつきに刺したってこと?レンチビ、2歳にして急所をおさえてるの?
え?え?なに?

レンチビは、尋常ではないねーねの様子に隣で大声で泣き始める。

いや、まてよ、喉に傷はない。見えない。あるのは何故か喉の真ん中に入れられた似非タトゥー。

「え?なに、どういうことなの?」

よくよく聞くと、2歳のレンチビが長女の口にペンのキャップをぶっこみ(餌やりのつもり?)それを思わず飲み込んでしまったというのだ。

泣きそうな長女の顔を見て私も泣きそうになりながら、慌てて大声で夫を呼ぶ。(もちろん私は素っ裸のまま)

痛い?と聞くと、この辺にある、と胸のあたりを指差す。どうしよう、どうしよう、ねえ、病院行かなくちゃだよね?ロックダウン中だし子どもは外出不可だけど、やっぱり病院行かないとだよね?

夫は冷静に、そうだね、でもまずはゲーって吐き出せるか試してみようか、と言ってコップに水を汲んでくる。水を飲んで指を突っ込むも、でてこない。それどころか、水を飲んだことで、胸のあたりで止まっていた異物が胃に降りて少し違和感がやわらいだようだ。 

それからどんなキャップだったか教えてくれる?と夫は長女に絵を書かせ、尖った部分がなさそうだと分かると、ん、じゃあ多分大丈夫から、う◯こに出てくるのを待ってみよう、と言った。

え、それでいいの?と思いつつ、胸の違和感もなくなって長女も落ち着きを取り戻したので、この状況でいろいろな許可をとって病院に連れていくことの面倒やリスクを考えると、家でう◯こに出るのを待っている方がまあいいや、ということで、とりあえず夕飯をとることにした。

泣きじゃくっていたレンチビを抱きしめていた私はようやく自分がまだ素っ裸であることを思い出して、服を着て、ぐったりした気持ちで夕食を食べた。

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ちなみに後日、無事正規ルートでキャップが排出されたことをご報告しておく。人間の体ってすごい。

心の振り子を大きく振る

引きこもり生活をしながら、人間のウェルビーングってなんだろう、と改めて考えている。幸せ、とも言い替えられるかもしれない。もしかしたら健康、という言葉も近いのかもしれない。

ロックダウン以降、多少の理由で外出するという選択肢はなくなった。たとえば誤ってキャップを飲み込んだ長女は、もしロックダウン中でなければきっと間違いなく病院に連れて行っていただろう。最近は脳性麻痺であるハルの筋緊張がとても強く、本来なら定期受診をして主治医の指示を仰ぎたいところだけれど、まあこの状況で病院を受診する必要はないかな、と躊躇する。ちょっと筋緊張を緩める薬足しとくか?などと適当なことを考えている。

こういう、なんというか、正常な医療へのアクセスという意味では、明らかに質は低下している。もし万が一、これが盲腸とか緊急を要する病気なら、リスクと面倒を承知でなんとか病院にいくだろうけれども、そうではない小さな病気や怪我や、そういうあらゆることを、文字通りぐっと飲み込んで、ひっそりと生活をしている。もしかすると、本来だったら早期発見できる病気を見逃しているというケースも少なくないのかもしれない。もちろんそれ以外にも、外出が不自由なことのデメリットは数え切れない。

しかし、だ。

気がついたことは、ウェルビーングに必要なのは必ずしも自由な外出ではないかもしれない、ということ。そもそも医療へのアクセスと言う意味でも、本当に病院に行く必要があることなのかどうか、見直すきっかけになった。

例えば、メイドさんが来れなくなり、いっぱいいっぱいになった私にかわって、長女がハルにご飯をあげてくれるようになった。オヤツ程度ならサクッと完食させてくれる。

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美容院に行けないので、夫にベランダで髪を切ってもらった。多少散切りではあるけれど、数千円かけて美容室で切ってもらわずとも髪は切れるのだ、という発見があった。(もちろんプロに切ってもらえるラグジュアリー感は捨てがたいけれど!)とりあえず「ママかわいい」と子どもに言わせて満足している。10回かわいいって言ったら(いつか)トンカツ食べ放題。

お友達や遠くの親族と自由にコミュニケーションができないので、家族でYou Tubeを始めた。くだらないことばかりのコンテンツだけれど、お友達から「元気そうだね!」とか「面白かったよ〜」と反応をもらって喜んでいる。

運動不足になってきたので、家族で運動会をしてみた。ラムネを愛する長女によるラムネ食い競争は、案外盛り上がって喧嘩になった。

ほら。あれれ。なんだろう。一歩も外に出ていないけど、なんだか楽しいぞ。怒ったり笑ったり泣いたり、いつも以上に感情が動いている気さえする。

ふと、星野源さんの「蘇る変態」(マガジンハウス)の一節が思い出される。

「生きた証や実感というものは、その人の外的行動の多さに比例するのではなく、胸の中にある心の振り子の振り幅の大きさに比例するのだと思う。」

無意識ではあったけれど、この緊急事態を生き抜くために、私達は外的行動の縮小と引き換えに、心の振り子を大きく振る努力をしていたのかもしれない。ごはんをいつも以上に美味しく食べる、ということも、そういうことだったのかも、と思うと納得がいく。

外出ができなくても、誰かと直接会うことができなくても、心の振り子を振ることはできる。幸いなことに、世の中のオンライン技術は驚くほどに進んでいる。

そして、この状況でもやっぱり必要だと思うのは、誰かとつながっている、という感覚だと思う。まずは一緒に住む家族同士で。そして、遠くに住む家族や親しい友達と。それから、国や地域や、社会と。誰かとつながっている感覚は、間違いなくあなたの心の振り子を揺さぶる。

あなたの心の振り子を揺さぶるものは、なんだろう。
あなたとつながっている人は、誰だろう。

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ここで、はたと気がついた。
ハルの生き方が、すべてを教えてくれていたじゃないか。

重度心身障害児のハルは、歩けない、動けない、目が見えない、自分では食べられない、外出しにくい、言葉がしゃべれない。
だけど、笑う。
嬉しいときは、静かに笑う。
楽しいときは、大きく笑う。
寂しいときは、か細く泣く。
悲しいときは、大声で泣く。
安心しているときは、体が緩む。
そばにいる家族を呼ぶときは、唇を尖らせて声をだす。

ハルが動けないから、ハルが体が不自由だから、心の振り幅が小さいかというと、そんなことはないのだ。そんなことはない。私達の知らない世界を生きるハルの世界は、無限だ。
私達の知らない心の揺さぶり方を、きっとハルは、知っているに違いない。

本当は、今こそつながるべきだ。
今こそ、老いも若きも、障害のある人もない人も、言葉の違う人も髪の毛や肌の色が違う人も、そして住む場所や宗教が違う人も。

つながればつながるほど、きっとあなたの心の振れ幅は、大きくなる。
新型コロナウイルス対策として最近よく使われる、Social distancing (社会的距離をとる)という言葉は、少し誤解を招く気がしている。もちろん感染を防ぐ上での距離を取る、ということは必要だけれど、精神的なつながりまで断絶する必要は、ない。

つながれ、人類。

つながれ、世界。



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