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映画「道草」とオンライン対話会

Y先生に初めて会ったのがいつなのか、もう思い出せない。元々は夫の上司だったのだけれど、いつのまにか我が家のキッズも私も、みんな夫を飛び越してY先生のことが大好きになっていた。

最初は人間のできた素晴らしい夫の上司、と思っていたのだけれど、何かとコブ付きで仕事をする夫を快く受け入れてくれ、我が家のキッズの下品な遊びにいつも楽しそうに付き合ってくれ、素晴らしい画力をキッズの好みに合わせて惜しみなく発揮してくれ、知れば知るほど人間臭いところがにじみ出てきて、勝手に親近感がわき、次第にもっと近い距離で、Y先生が好きだ、と思うようになった。

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(画・Y先生)

そんなY先生から、「道草」という映画を紹介してもらった。知的障害のある人達が、自立生活をおくる様子を撮影したドキュメンタリー映画だ。小海町で開催する上映会にオンラインでも参加可能だというので、夫と一緒に見てみることにした。

映画「道草」を見ての感想(ネタバレあり)

想像していた湿っぽさはあんまりなく、ケタケタ笑いながら鑑賞できる、爽やかな映画だった。感じたことはいろいろあるのだけれど、印象深かったことを中心に、映画を見ての感想を書き出してみる。

1.中田さんサイコー

まずはともあれ、中田さん(リョースケの介助者)サイコーって言いたい。これは他の介助者さんもそうなんだけど、変に気を使わず、普通に介助者を叱ったり溜息ついたり、まるで本当の家族のように接していて、苦労を苦労として受け止めつつ、でもちゃんと愛を持って支えているのがすごく好感を持てた。

だってねえ、実際、きっと大変だと思う。
この映画を見ていて思ったのは、ここに出てくる知的障害者の人たちは、語弊を恐れずに言ってしまえば、純粋な子供みたいだということ。やりたい!楽しそう!という欲求を抑えることなく素直に実行している様子は子どもそのもので、可愛らしい反面、自分の子供が小さい頃を思い出して(ていうか今もかも)、大変だよね〜分かるわ〜って笑いながら頷いた。

今は笑えるけど年子の子ども二人が小さいときは、散歩が延々半日も終わらずにご飯の支度が間に合わなかったり、「トトロが出てくるまで公園から帰りません!」と頑として動かず、暗くなっても家に帰れなかったり、せっかく子どもが食べやすいようにと考えて準備したご飯を食べずに床に捨ててお菓子を食べちゃうので、私はちゃぶ台ひっくり返したり(実際にはちゃぶ台は無かったけど)、まあとにかく毎日気が狂いそうだった。

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だから、映画の中に出てくる彼らは、ある意味で純粋な子供のような可愛らしさがあり、そのまま成長している無邪気さは、大人になってしまった私からしたらうらやましくすら感じるのだけれど、介助者にとっては手がかかるのだろうということは容易に想像できた。

映画に登場するリョースケの介助者たちは、長年の付き合いもあってなのか、そういう大変なことを、ちゃんと大変だ、とため息や言葉に昇華させながら、でもちゃんと彼らの魅力をわかって支えていて、それはまるで本当の家族みたいですごい、と思った。

そして何よりもいいと思ったのは、中田さんが、リョースケの誕生日を自分の自宅に招いて自分の家族と祝っちゃうっていうところ!なにそれ完全に家族やん。

これはなんか、理想な気がした。本人の家族もいて、でも本人の家族が困ったときに支えてくれる別の家族がいるっていうのは、理想。
私も夫も、折に触れて重心児である第三子ハルの、“その後”について考えるけれど、常々思っているのは「明るい方法で考えたい」ということ。ハルがどういう人で、どういう環境で育っていて、どういう支援が必要で、どんな時に介助者は大変な思いをするのか。そういうのを全部ひっくるめて知った上で、ハルを愛してくれる人が増えて、第二の家族や第三の家族や、家族にかわる居場所ができたらいいなあ、と願っている。

だから、中田さん、サイコー。ハルも、中田さんや、中田さんファミリーのような人を見つけられて生きていけたら良いと切に思う。勝手な願いだろうか。

2.「地域の中で自立生活」という割に地域の人が出てこなかった

そのままなのだけれど。映画に登場したのは主に家族と介助者で(しかも家族はなんとなくちょっと距離をとっているように見えた)、地域の人が登場しなかった。

ヒロムが介助者の篠原さんといる時「ター!」っていう声を楽しそうに出しているのは、むしろ私には素敵な光景に映った。嬉しい、安心、楽しい、っていうことを「ター!」で表現しているように見えたからだ。でも介助者の篠原さんは「しー!」っていう。「まわりの人がびっくりしちゃうから『ター!』はダメよ」って何度も何度も言う。それでもじゃれ合うように、ヒロムは「ター!」を繰り返して、見ながら私も夫も大笑いしてしまったのだけれど。

地域の人がもし、もっとヒロムのことを知って、多少なりとも関わりがあれば、「ター!」はもっと自由になるんじゃないだろうか。そしてきっと、私が感じたように、地域の人にも素敵な光景に映るんじゃないだろうか。
「周りの人間にとってはターは非日常なんだけど、僕と彼にとっては日常なので」と介助者の篠原さんが映画の中で言っていたけれど、地域の人にとっても「ター」が日常になればいいのにな、と思った。

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(↑上の子の保育園ですっかり人気者になったハル。子どもはすぐに聞いてくれた「なんで目が変なの」「なんで歩けないの」その都度ちゃんと説明して、そして理解していってくれた。)

※映画上映会後のオンライン対話会で、このことについて宍戸監督に訊ねてみた。いわく、登場した主人公たちは、実際、地域の人と関わることをあまり必要としていないという特性があるのかもしれない、とおっしゃっていた。なるほど、と思いつつ、「ター!」について感じた私の違和感は、もしかしたら宍戸監督のおっしゃった「本人→地域」ではなく、「地域→本人」の理解の問題なのかもしれないな、とも思ったことを付け加えておく。

3.介助者との関係性

リョースケの介助者は、10年以上と長い付き合いの人が多く、リョースケはだから、心の安定を保てているのかもなあという気がした。一人として同じ人がいないのと同じように、知的障害があるからといって一括りにはできない。だから、簡単に言い切ることもできないと思うけれど、映画を見ていて、リョースケと介助者の関係はとても羨ましかった。

ハルのことを考えると、そうやって小さい頃からずっと知っている人が、親がいなくなった後もついていてくれたらどんなに安心だろう、と思う。もちろんハルの場合は自立は無理だとしても、リョースケの介助者さんたちのように長く付き合えるいわば第二の家族を、ハルはどうやったら見つけられるんだろう。日本にはどういう制度があって、例えば自分が住む地域にはどんな場所や団体があって、どういう仕組みでそういうサポートを受けられるのか、お金はどのくらいかかるのか、どういう条件で利用できるのか、私はそういうことを何も知らない。

ユーイチローの外出を巡っては、介助者と介助者で意見がぶつかるようなシーンも見られた。けれど、ユーイチローが本当に嬉しそうな顔で、鳥海さんと一緒に外出を楽しむ様子は、見ていてとても嬉しかった。

ただ映画を通じて見ていただけだけれど、こっちの介助者がこの時に介助に入っていたら、どんな対応をするだろう、どうやって乗り切るだろう、といろいろと想像した。介助者の個性や、本人との関係性によって、大きく生活はかわってくるのだろうなと感じた。

純粋な子供のような主人公たちを見ながら、何度も笑ったし、頷いた。誰もが、私の中にも共通するものを持っていて、それをただ、我慢したり制御したりすることなく、自由に解き放っているように見えて、それは私にとっては少しうらやましかった。「一緒にいて楽しいって思える魅力がある」って最後の方で中田さんが言っていたけれど、本当にそうなんだろう、と見ていて思う。彼らがすごいのは、ちゃんと大変なことも家族と同じレベルで受け止めて、なおかつ支えてくれるところ。そういうの、本当に必要だなあと思う。

オンライン対話会の難しさ

オンラインでのイベントに出るのは実は初めてだった。

子どもたちがオンラインの授業を出るのを横目で見ては、「ほら、ちゃんと授業出席しなー」なんて言っていたのだけれど、実際に出てみると、その消耗の激しさに愕然とした。空気を共有せずに、画面上でのみコミュニケーションをとることの、なんと難しいことよ。

上映会をオンサイトでやっている会場では、まず映画をみんなで見て、そして監督を交えた対話会をするという設定で、オンラインでは、各自事前に映画を見て、オンサイト会場が映画を見ている間から対話会をスタートした。

難しさを感じたことを整理してみようと思う。

1.誰かわからない
まず、まあ当然ながらオンラインで参加者とつながっても、さっぱり誰が誰だか分からない。この上映会は「ぷれジョブ」という活動をしている人たちが主に主催しているらしく、その関係者らしい人が半分くらいいて、その人達はお互いを認識しているようだったけれど、いきなり参加した私は誰が誰だかさっぱりわからない。

なぜかマレーシアから参加していたらしいオンラインのファシリテーターも、私からしたら一体誰なのかよくわからない。なぜ彼が今回の対話会に関わっていて、どういう想いで今回参加して、あとなんでマレーシアにいるのか。(まあインドから参加した私も人のことを言えないのだけれど)

そういう状態で、まずはグループに分かれて映画の感想を言い合いましょうと、いきなり5人ずつくらいのグループに飛ばされて、はっきり言って超ビックリした。「えーっ誰か良くわからない人とグループになるの嫌だな…」と思っていたら、リアルでお会いしたことのあるお二人が一緒のグループでちょっとほっとしたけれど、それぞれがどういう背景の人で、どういう経緯でこの映画対話会に参加しているのか自己紹介する促しがなかったので、(自分も含め)、なんか雲を掴むような話し合いだった気がする。たまたまグループの中で柔らかく上手に進行してくださる方がいらっしゃったから良かったのだけれど、あれはわざと仕組んであったのかどうなのか?よくわからない。

一人5分ずつ、30分程度のグループワークが終わると全体の対話会に戻ったのだけれど、各グループごとに話し合いの内容をシェアしていくわけでもなく、割とその場任せで、全体でまたもう一度話し合いを立ち上げている感じがして、なんていうか、グループワークは意味はあったのかな、と思わざるを得なかった。グループごとの話し合いがシェアされないなら、自分が感じたことや聞きたかったことは、今ここで発言しなかったら宍戸監督には伝わらないかもしれないと、焦って一つだけ発言したけれど、焦りに押されてここでも自己紹介をしそびれてしまった。他の人にとっては「誰なんこいつ、何いっとんじゃ」って思われたかもしれない。

だって宍戸監督に感想を伝えたかったんだもん。

実際、その一回しか感想を宍戸監督に伝えるチャンスは回ってこなかった。

2.映画を見ての「対話会」を、どう捉えているか
そもそも、この「対話会」は、前提として映画について話をする、そして実際に企画した場所である小海町の現状やこれからに繋がる話をする、というふうに、なんとなく私は理解していた。オンラインの会の最初にも「じゃあまずは映画を見ての感想をお話しましょう」と言っていたので、あくまでも映画の話をするのだと思っていたのだけれど、蓋を開けてみたら、もちろん映画についての話をする人もいたけれど、自分の経験をとにかく語る人、ぷれジョブという活動について話をする人など、「対話」の意味付けがみなそれぞれバラバラなのかなあ、という感想をもった。

「対話」っていったいなんだっけ・・・

本来なら自己紹介とともに、「なぜこの対話会に参加したのか」という部分のすり合わせを、最初にできたらよかったのかもしれないなあ、と思った。

いや、言うは易しだけど。

3.長時間なのでファシリテーションが命
オンライン参加の人たちは、オンサイトの人たちが映画を見ている間に加えて、その後のハイブリットでの対話会まで、かなりの長時間参加することになる。(およそ3時間!!)なので、前述した必須事項(自己紹介や、対話会に参加した理由)に加え、ただ「映画の感想を言い合いましょう」という以上に、参加者をひきつけておくしっかり練られたファシリテーションが必要だと感じた。実際、長すぎて私は飽きてしまって、ちょいちょい退出した。そして、オンラインの距離感は想像以上にすごく遠くて、他の人が喋ってることがうまく頭に入ってこなかった。

そしてオンラインとオンサイトが最終的にはハイブリットになって対話会が行われたわけだけれど、グループワークがグループのみのどん詰まりだったのと同じように、その時間までのオンラインもオンラインのみでどん詰まりで、ハイブリットになったときにそれまでの対話会の内容があんまり反映されていないように感じてしまった。

会場にいた宍戸監督と、ゲストとして参加していたY先生の対話をもうちょっと聞いてみたかったし、せっかくハイブリットになったのだから、オンライン側としては、会場から地元小海町の人たちの声を聞きたかったし、貴重な地元の人の発言を、もっと膨らませてほしかったなあ。

おそらく主催者関係者は知っているのであろうけれど私にとってはよく知らない人たちが指名されて話をしても、結局誰なのかよくわからないままではうまく背景が汲み取れないし、そして、すぐに主催のぷれジョブの活動についての話になってしまっていたのは、ちょっと残念だ。他の人がどうだったのかよくわからないけれど、少なくとも私は「映画を見ての対話」をしようと思っていたし、「小海町での対話」を期待していた。もしぷれジョブの活動について紹介するのがメインなら、「ぷれジョブ説明会with映画」というイベントにすればよかったのだと思う。参加者の目的が合致しやすい。

まあ、本当に言うは易しで、私にはとうていこんな規模でオンラインでしきったりすることはできないな〜と思うけれど!

とにかく、何か一つのイベントをやることの大変さはよく分かる。準備してくれた人たちは本当にお疲れ様です。そのうえで、イチ参加者の意見としてここに書いておきたいと思った。

とてもいい映画だと思ったし、私は小海も南佐久も大好きだから。

4.参加費500円はどこに使われたんだろう
ちなみにこのオンライン対話会は、500円だった。この500円がいったいどこに使われるのか、どこかでお話があるのかな、と思っていたのだけれど、とくに何の言及もなかった。

昨日参加した佐久の考古学説明会は、同じZoomを使って1時間半に渡って開催されたけれど、無料だった。実際オンライン参加は無料でできてしまうと思うのだけれど。

貴重な500円が、どのくらい集まって、どのように使われたのか、ぜひ参加者としては知りたいところです。だって500円あったら、インドだったら3〜4人分のターリーが食べられちゃうよ!じゅるり。

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駅の待合室事業のこと

映画「道草」の公式サイトに、こんな文章が載っている。

介護者とのせめぎ合いはユーモラスで、時にシリアスだ。
叫び、振り下ろされる拳に伝え難い思いがにじむ。関わることはしんどい。けど、関わらなくなることで私たちは縮む。
だから人はまた、人に近づいていく。

これは、文脈からしたら、知的障害者本人の目線なのかなと思ったけれど、少し考えて、介護者や、本人以外のすべてのひとの目線でもあるのかもしれないな、と思った。

「関わらなくなることで私たちは縮む。」

なぜならこれは、私がいつもハルと関わる中で感じていたことだからだ。ハルと関わることはしんどい。けれど、ハルと関わることで確実に広がる世界がある。確実に変わる空気がある。それは、私の生きる根幹を広げてくれているのだと思うし、ハルのきょうだいたちにとっても、ハルに関わる地域の人達にとっても、きっとそうなのだと思うし、そう思いたい。

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(南佐久に住んでいた頃、人んちの縁側でリラックスするハル↑)

今回この映画の対話会イベントが、小海町の「駅の待合室事業」のキックオフだと聞いて、興味をそそられ、同時に不安も感じた。この映画をキックオフにこの事業がスタートして、「関わる」人が増える場になればいいなと思ったけれど、でもそのためには、地域の人たちの声が必須だと思う。だって関わり合うのは、そこに住んでいる人たちだから。私がインドから知りえるくらいにはこのイベントの情報は拡散していたわけだけれど、でもなかなか、地域の人達の声や顔が見えてこなかったことに、一抹の不安を感じていた。ハルが通っていた小海の療育園の卒業生たちが多くいる「はぁーと工房ポッポ」(ここのかりんとうがとっても美味しいのだ!)の関わりも、あまりよく見えなかった。

もしかしたら、最初は、その地域に住む、ごくうちわだけでもいいのかもしれない。いい空気ができていれば、必ずしも最初から外に発信する必要はないのかもしれない。小規模でも丁寧に、想像力を働かせて、場が作られていったらいいなと願う。

駅の待合室事業が、遠くの誰かのものになってしまわぬよう。規模をどこまで大きくするかや、どこまで発信するのかは、多分、慎重になったほうがいい。だってほら、実際こうやって6000kmも離れた関係のない人(私です)があーだこーだ言えてしまうのは、良くないと思う。(だから私です)

またまた、言うは易しだけど、やるのは超大変だっていうこともよくわかる。でも私は、Y先生が大好きなのとおなじくらい、かつて住んでいた南佐久が好きだし、ハルをめぐってたくさんの人たちに救われたから、いいことが進んでいくなら、応援したいと思っている。

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それにしても、オンラインてやっぱり味気ない。できれば直接会って、できればお茶でも飲みながら、その地の美味しいものでも頬張りながら、そして最終的にはお酒でも飲みながら、話をしたいところ。宍戸監督に、もっといろいろお話聞いてみたかったなあ。まずは映画をもっと見てみたい。映画に国境があるのはちょっとナンセンスだと思うんだけどどうなんだろうっ。

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