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「特別支援教育」は特別なままなのか

さて、前回の記事で、障害や特性に関係なく、地域の学校に多様な子どもたちが通えることの意義に触れて書いた。

はい。わかってます、あくまで理想です。
現状においては、校舎の問題、教育カリキュラムの問題、教員配置の問題など、ありとあらゆる点において、多様な子どもたちを地域の学校に受け入れる準備は到底十分とは言えない。だからこそ、現時点では副学籍制度に期待する部分が大きいのだけれど、副学籍制度においても課題がある。

この記事では、理想に対して現状の教育制度に截然と存在するいくつかの課題について書いていく。

副学籍の付き添い問題

通常副学籍を希望した場合、在籍する特別支援学校の教員が引率できるのは(私の住む地域では)年2回までとのこと。それ以上の通学を希望する場合、原則として親が付き添わなければならない。地域の子どもたちと関わりを持ちたいと考えても、親が平日昼間に時間が取れないと副学籍の利用はとたんに難しくなる。

…って、あれ?ちょっとまって。ほら、あれよあれ。2021年に成立し、施行された「医療的ケア児支援法」では、保育園や学校での看護師等の配置を謳っているはず。これにより、各自治体は、医療的ケア児が家族の付添いなしで希望する施設に通えるように、看護師や保育士、介護福祉士等の配置を行う必要があるはずだ。

うん、まあ、確かにそうなんだけど、この「学校」が指す場所の定義や、実際の予算や体制、そしてなによりも人員確保が追いついていないのが現実のよう。

いわゆるこの「付き添い問題」。埼玉県では可能な範囲でボランティアが付添をすることもできるようだし、在籍校から教員が付添い可能なケースもあるようだ。個別に対応を切り開いていった例もあるかもしれない。

しかし、基本的には地域の学校に通うために必要な人手や時間のための予算は、各自治体に委ねられている。これに関連して、長野県では平成31年から副学籍コーディネーターの配置が開始されたが、実際の付添い人員という意味では現状考慮がないし、県内でも同コーディネーターは4人のみで、リソース不足感は否めない。

ぜひ副学籍を利用するすべての児童に対し、教員の派遣は難しいまでも、支援員の配置に予算を検討して頂けたら嬉しい。

学校ごとの教員配置

副学籍での付き添いが難しいのなら、そもそも地域の学校に所属すればよいのではないか、という考えもある。が、ここでまず課題になるのが、教員配置基準である。

出典:文部科学省「公立小中学校等の学級編成及び教職員定数の仕組み」より

特別支援学校では、通常学級の支援学級よりも教員一人あたりが担当する児童の数は少ない。つまり手厚い。

佐久市内の場合、通常学校の特別支援学級では一人あたりの教員が担当できる児童数は最大8人、これに対し特別支援学校ではおよそ2〜2.5人と、大きな差がある。この配置基準は、義務標準法という法律に基づいて、最終的には自治体がこの教員配置数の決定を行っているようだ。

通常、障害のある子が就学する際、就学前相談というものが実施される。本人や親の希望と本人の状況をもとに、専門家集団に諮り、適正な就学先を判断するというもの。この就学前相談を経て、特別支援学校に進むのか、通常学校に進むのか、はたまた通常学校の支援学級に進むのかを決定する。

ただし、家族の状況や希望により、諮問により適切と判断された学校とは違う場所に就学することもある。たとえば諮問により特別支援学校が適切と判断されたが、何らかの事情により通常学校の支援学級に就学することになった場合、本来(教員:児童)=1:2〜2.5 でケアされるべきだったはずにも関わらず、(教員:児童)=1:最大8 という体制の中で教育を受ける事になってしまうという。(後述するが、もちろん現場の要請次第で支援員の配置はできる)

これ、普通に考えておかしくないだろうか。専門家も交えた諮問で1:2でケアされるべきと判断された子が、就学場所が違うだけで教員配置が手薄になってしまうのだ。たぶん、子ども本人にとっても、指導する教員にとっても幸せではない気がしてしまう。学校ベースではなく、子どもベースで教員配置数を決めた方がよいと思うのだけれど、どうだろう。

背景には、圧倒的な教員不足の現状があるのも事実。教員の勤務環境が問題視されて久しいが、特別支援教育に関する教職員教育に加え、教員の待遇や地位の向上を同時並行的に進めていかなければ、この問題を根本から解決するのは難しい。難しいといって終わりにしたくないから、ぜひ政策や法律や制度に反映させてほしい。

もちろん、この基準では見きれないという現場の要請があれば、支援員の配置を進めることもあるが、希望通りに採用できるかどうかは、蓋をあけてみなければわからないという。つい最近、私が住む長野県佐久市でも支援員の募集が一斉に公開されていた。

令和5年1月に出された佐久市で支援員の募集情報の一部
同じく医ケア児をサポートする看護師の募集情報の一部

もちろん看護師さんや支援員さんについてもらって地域の学校に通学している方も中にはいるが、希望をすんなりと通すのは難しいのが現状のようだ。
佐久市の例を見ても、短期決戦的な募集方法や待遇など、採用広報のあり方としては改善の余地がありそうだが、都道府県や国から降りてくる予算次第という懐事情もあるようだ。支援員の採用にもう少し時間と予算をかけていけるよう、国レベルでの方針転換がほしい。

増加する特別支援学校のニーズ

一方特別支援学校は、どこも教室不足が問題になるほど就学ニーズが増加。学校基本調査によると、特別支援学校への就学者数は20年前の2倍とも言われる。改築工事をしたり、もともと図書室や倉庫だった場所を教室として使うことにしている学校も少なくないようだ。ハルが通うことになるであろう小諸養護学校でも、来年度大規模な増築工事を予定している。

こういった状況を考えると、特別支援学校に特別支援が必要な子を集中させての教育は、このままではいずれ限界がくると思う。こうなるとなおのこと、地域の学校に多様な児童生徒を受け入れていく体制を整えていく必要性を感じる。

コロナ禍において、不登校児童生徒の数が急増している話も耳にする。コロナ禍により、空気でもってつなぎとめていたものがもはや機能しなくなり、それが顕著に表出しているのかもしれないとも感じる。

インドの厳しいロックダウン下、切れるナイフのようだった様子と打って変わり、
外で生き生きする子どもたち@日本

誰にとっても自分らしく学べる支援をすることが「特別支援教育」なのだとしたら、理想を言えば、全員にそれができる方がいい。佐久市でもお隣の小諸市でも、小学校の統廃合が計画されている今こそチャンスかもしれない。

特別支援教育をみんなのものに

ハルの就学先を検討するにあたって、特別支援学校を見学させていただいた。先生方はそれぞれ障害や特性をよく理解してくださり、給食も形態別に作って介助してくれるし、さらに個別に合った目標を定め、それぞれがやりやすいやり方で目標にむかって学びをプログラムしていく。

ふむふむなるほど、すばらしい。
(そういうのが地域の学校でも普通にできれば良いのになあ、というのは前述の通り)

ギャラリーで教えてもらい、生まれて初めて指先に筆を付けて絵を描いたときのハル

でも、うちのハルは知的にも身体的にもかなりできることが少ない状態である。だからこそ、いわゆる積み上げ学習以外の部分で、特別支援学校に通うことによってどんな成果があるのか、知りたかった。

「特別支援学校を卒業された重度心身障害のあるお子さんは、学校に通うことによってどんな変化が期待できるのでしょうか。」

聞いてみた。でも、答えは極めて曖昧だった。もはやどんな回答だったか思い出せないくらいに曖昧だった。

いやあのですね。別に成果がないだろうと疑っているわけではなくて、特別支援学校に通うとこうなって、地域の学校に通うとこうなる、という2つの未来予想図を並べて検討しようかな、と思っただけなのです。だって高校受験も同じでしょ。この高校に通うとこんな進学実績がある、とか、こんなスポーツに強いです、みたいなので、志望校を決めるじゃないですか。

地域の学校で多様な子どもたちと関わることで得られる刺激や広がりを差し置いても、特別支援学校という場所に通学することに良さがあるとしたらどんなものか、単純に聞いてみたかったのだ。

全く悪意はない。
というか、多分、本当はちゃんとあるんじゃないかな、特別支援学校ならではの「成果」。問題は、それが可視化されていないことだと思う。企業で言えばKGIみたいな?(企業、よくしらんけど。)たくさんの事例をもとにした実績や成果が明確にされていないのは、もちろん学校選びをする親子の判断を難しいものにするし、それだけでなく、特別支援学校が歴史的に担ってきた役割を徐々に地域の学校に移植していくことをも困難にしてしまう。研究は進んでいるのかもしれないけれど、それがちゃんと現場に浸透していないと意味がない。

「地域の学校に移植」と言ってしまったが、もちろん重度の障害があるハルが地域の学校で授業をうけることは容易ではないのは想像にかたくない。体験入学をさせていただいたたった1日でさえ、事前の打ち合わせをもとに先生とクラスの子供達が話し合い、ハルができることを考慮しながら、授業を考えてくれた。きっとものすごく大変だったはずだ。これが毎日になったら、正直現場の先生も困るかもしれない。だからこそ、特別支援学校での実践やその成果が必要なのだ。

特別支援教育を、いつまで特別なものにしておくのだろう。

特別支援学校で行っている”特別支援教育”を、特別支援学校だけのものに囲ってしまわないためにも、特別支援学校の実績や成果をより明確にしていくべきなのではないか。(私が知らないだけ?)そして、そのためのバックオフィス体制や研究を、ぜひ。

みんな正義だから 

この数ヶ月、在野の文化人類学者、磯野真穂さんのオンライン講座を受けている。2年前にも講義を受けたが、オンラインとは思えぬファシリテーションと内容の濃さに圧倒された。今回はメアリ・ダグラスによる「汚穢と禁忌」(ちくま学芸文庫)を読解していくという、より講義らしい講義なのだが、これがなかなかどうして、難解でありながら示唆深い。

ダグラスによれば、人間は、社会にある多くの超えがたい境界線によって結合されたり隔離されたりしており、組織や共同体を維持するために、その境界線にあるものには、物理的な制裁が働くか、または社会的な制裁が働く。そして境界線が不安定なところでは、「汚穢」という観念がそれを支えるというのだ。(8週間に及ぶ講義をこんな数行にまとめてしまうのはあまりにも心苦しいのだけれど、興味のある人はぜひ本を読んでみてほしい。超難解ですが!笑)

特に前例や慣習を重んじる日本社会は、社会構造に内在する力にその安定性を頼る傾向が強いのではないかと、講師の磯野さんは指摘する。そういえばその昔、田舎の公立小学校から全寮制の中学を受験し、合格したので進学する中学の制服を着て卒業式に参加したいと伝えたときに、「前例がない」と校長室に呼ばれて諭されたことがある。もちろん私は、第一号の前例を作ってさしあげた。前例がなかったら作ればいいし、慣習が異なるなら新しい慣習で塗り替えればいい。

ハルは小さい頃からきょうだいたちと山に登り、海にも生き、地域の行事にも参加した。「ふつう行かないよね」と言われたインドにも家族と一緒に渡航し、文字通り足で歩き回って雨漏りする特別支援学校をみつけ出し、ヒンディー語と英語が入り混じった教育を受けたし、死にそうになるほど灼熱のサロジニナガールで、100ルピーのマンティッカを買っておしゃれをした。今は夫と二人、フィリピンに住み、学校にはいけないけれど、毎日通う公園でちゃくちゃくと友達を増やし、誕生日パーティーにお呼ばれしている。もちろん、外資系ビジネスパーソン並みに飛行機も経験している。(外資系、知らんけど。)

前例や慣習を軽々と打ち破っていくハルは、決して特別なことをしているわけではない。ただ、家族と共にすごしたい、無理なく心地よい生活がしたい、できればお友達と一緒にすごしたい、というシンプルな希望を貫いているだけだ。

きょうだいたちと公園を楽しむハル

私はこの記事を通じて誰かを攻めたいわけでも、批判したいわけでもない。むしろ、誰も間違ったことは言っていなくて、多分みんな正しい。
この世は、正義で溢れている。
だからこそ、どうせ正義のために努力するのなら、みんなででかい正義の塊みたいなものを探り当てたい。

だから、今までのあり方への疑問や課題を、不安定な「汚れ」として見て見ぬふりをしたり、社会構造に反するからという理由でつまみだしたりするのは、もうやめたい。従来の社会構造に前例のなかったことも、慣習とは異なることも、勇気をもって受け止めてることで、はじめて議論というのは生まれるんじゃなかろうか。

ハルはどんどん成長して大人になっていくし、私はどんどん衰えていく。社会は刻々と変化している。一刻も早く、ハルや私達みんなが生きやすい社会を実現しなければ、私はじきに死んでしまう。そうこうしているうちに、次々にまた新しい課題がでてくるだろう。

手の届く範囲だけでもいい、議論するべきことを議論するという当たり前の権利を行使して、社会とともに我々も、我々の考え方も変化さえていく必要がある。多分それは、結果的に時代とともに変容していく(いかざるをえない)自分自身が生きやすい社会でもあるはずだ。


次回の記事では、学校クエストと同時並行で模索してきた福祉クエストについて書こうと思っています。(学校クエストが終わったわけではないよ)次回は2月20日頃公開予定。お楽しみに!

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