見出し画像

日常にならないロックダウン生活

手のひらがじんじん痛む。テレビの約束を巡って30分の攻防の末、ダイニングテーブルを思いっきりぶったたいて、長女をやりこめた結果だ。じんじん、痛い。

***

日常にならないロックダウン生活

インドでロックダウン、ラウンド4が決定し、ようやく詳細が出た。スタート前夜。おそすぎる感満載ではあるが、まあでも、インドだからと、なんとなく受け入れてしまう不思議魔力。

次は5月31日まで。これまでのロックダウンに比べていろいろ緩和はされるらしい。ただし、なぜこの感染者が(インドで)うなぎのぼりの状況で緩和されるのかはよくわからないまま。むしろ聞いてみたい、なんで今このタイミングで緩和なのか。(多分経済的に我慢できなくなったんだろう)緩和の指針はあるのか。(たぶんないんだろう)

まあでも、インドだから。

画像2

で。最近気づいたことがあるのだけれど。
少し前まで、このロックダウン生活、というか、人と会わずに家に居続ける生活は、きっと少しずつ日常になっていくんじゃないかと思っていたし、半分くらいは実際日常になっていたような気になっていた。

でも、ロックダウン開始から2ヶ月がたっても、完全な日常にはならなかった。こどもたちは友達に会いたい気持ちが日に日に強くなり、かといってオンラインで会ったところで意味がないと本能的に察知しているのか、オンラインにはむしろ嫌気がさしつつあるよう。

長男と、特に長女は、キレるナイフに拍車がかかり、ずいぶんとシャープになってきたナイフの矛先をああでもないこうでもないと無意味にあちこちに振り回す。普段はなんとかその矛先をよけているのだけれど、うっかりブスリと刺さってしまった結果、私の手のひらはダイニングテーブルに叩きつけられ、じんじん痛む。

レンチビは日に日にぬくもりを求めて抱っことハグとスイーツを強く要求する。オールウェイズ、ハグ。オールウェイズ、チョコ。相変わらずウイルス付着を恐れて手はグー率が非常に高い。

ハルは本当に吐き戻しが多く、比例するかのように眠い時間も多い。ぐずぐずして周りの人の手を煩わせるのも、抱っこの時間が長いのも、もしかしたらハルなりの意思表示なのかも、しれない。(違うかも、しれない)

画像3

それで、気がついた。人に会わない生活、というのは、人間にとって日常にはならないんだ、きっと。一昨日いっき気読みした「君の膵臓をたべたい」の一節を思い出す。

「誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手をつなぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。自分たった一人じゃ、自分がいるってわからない。誰かを好きなのに誰かを嫌いな私、誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きてるってことだと思う。私の心があるのは、皆がいるから、私の体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きてる。」

誰かと会わない、誰かと心を通わせない、誰かと体をくっつけない生活は、ほとんどそのまま生きることを放棄した(あるいは奪われた)生活だから、日常になる方がおかしいのだ。たぶん。

そう気がついてしまったら、かすかに、ではあるけれど、このウイルスで人類はもしかしたら破滅するのかもしれない、と思うようになった。アフターコロナとか、withコロナとか言うけど、人類は果たしてコロナを乗り越えて、あるいはコロナと共に生き続けられるのだろうか。まったくもって冷静に悲観している自分がいる。人類が破滅するときって、きっと劇的に隕石が降ってくるとか、宇宙人が侵略してくるとか、そういうんじゃなくて、じわじわと首が絞まるように人間の生きる根幹を奪われていくようなときなんだろうな、と普通に思う。まさに、今のこの状況のように。

我が家の非日常

手のひらが、じんじん痛い。内臓はまだヒリヒリしている。私のやり方はもしかしたら間違っていたのではないか、私の言い分だって、もしかしたら間違っていたのではないか、みんなが寝静まった暗闇で考えこむ。

 *

我が家の日常は、良くも悪くもハルを中心に回っている。一番弱いハルの世話にどうしても大人の人的資源は傾きがちだし、ハルの様子で家族のスケジュールが決まる。旅の行き先も、日曜日の過ごし方も、夕ごはんのタイミングや宿題をやる時間まで。私の体がハルのケアから少しだけ解放されているタイミングを見計らって、ハル以外の家のことを回す。

画像4

長男長女に「家の手伝いをしなさい」というとき、そのうちの50%くらいは、「ハルの面倒を見たり、ハルの様子を見て大人をサポートしなさい」という意味が含まれている。で、これって冷静に考えると結構レベルの高いお手伝いだと思う。そもそもハルを知っている人じゃなきゃできないし、ハルの様子を見て、彼女が眠いのかお腹がすいたのか遊びたいのか、ハルを介助している大人が今何をしようとしているのか、察しないとできない。

ハルの介助については、私と夫の間でも、たとえばハルの食事の温度一つとっても、ハルの食事の素材一つとっても、あるいはハルの痰のとり方一つとっても、意見が異なったりするから、それぞれの介助者の空気感みたいなものも読み取らないといけない。

ハルはしょっちゅう吐き戻すはずなのに、吐き戻したときはだいたい結構焦る。(だいたい夫が特に焦る)焦ると、必ずといっていいほど長男長女にとばっちりがいく。「早くティッシュを持ってきてよ!」とか「ゲロまみれの服を下洗いしといて」とか「ゲロまみれの床を雑巾掛けといて」とか。実際周りは何をしたらいいのかよくわからないこともあると思うし、小学生の長男長女がうろたえるのは当たり前かもしれないけれど、それでも何度でも焦り、人手が足りないときは命令口調だ。

夜中はハルが日によってしょっちゅう起きて泣く。私と夫、そばにいる方や気がついた方(だいたい夫)があやして寝かしつけるのだけれど、あまりに眠いと寝たふりをして無言で寝かしつけを押し付け合う。どっちかが「ああっもうっ、泣いてるハルをほっとけない」と根負けするまでほんの僅かの時間攻防が繰り広げられる。もちろん、本当に眠すぎて気が付かなかったり聞こえているのに体が動かないこともある。

遊び足りないとき、お腹が空いちゃって居ても立ってもいられないとき、眠たいときは、バギーの上でいやいやをするハル。赤ちゃんのゆりかごのように、バギーごとゆらゆらと揺らしてやると落ち着くのだけれど、大きなバギーをゆらゆらし続ける作業もまた結構骨の折れる仕事だ。大抵は長男が本を読みながら器用にハルをゆらしてくれるのだけれど、それも疲れてきたり、それでも泣き止まない場合は、なんとなく家族みんなでハルの押し付けあいみたいになることもある。

画像5

家族がハルを中心に回ることは、もちろん悪いことだけではない。ハルを中心に家族が一致団結することで、わたしたちは何度も救われた。だから、確かにハルは家族の中心で、かわいいしピースフルではあるのだけれど、ただ、面倒くさいものは面倒くさいし、眠いものは眠い。誰かにだけ負担が偏らないよう、子供たちでさえ、結構大変な「家のお手伝い」を最低限やらないと我が家では生きていてはいけないぐらいな雰囲気になっている。

かわいい、けどめんどくさい。

新生児育児と似ている。家族みんなで、回していく。私達の大事なハルが、いざというとき我が家の守り神になるように。これが我が家の日常だ。子供たちが学校に行ったり、仕事にいったり、ハルも学校に行ったりして、バランスをとって日常を回していた。

日常が非日常になったまま、もう何日も経つ。キレるナイフが突き刺さるたび、私は悲鳴をあげるように激情し、そのたび私の手のひらも、内蔵も、ヒリヒリと痛む。きっと子供たちも、私の手のひらの痛み以上に、痛みを感じているのだろう。なんだかんだ、結構レベルの高い「家のこと」を必要最低限に定められた我が家の子供たちは、結構すごいのかもしれないし、結構無理しているのかもしれない。

いつか日常が戻ってきて、私達の「生きる」が取り戻せるその日まで、私はなんとか彼ら(子供たちの)の「生きる」を守らなければならないのだった。だからこそ、私も叱るし、一生懸命になってしまうし、正しいことがどれかわからなくなってしまうのだけれど。


手のひらが、じんじん痛い。
でも痛いのは、手のひらだけじゃない。私だけじゃない。


人類が破滅するかもしれないという、かすかな悲観思想が頭に浮かんだその日に、私はやっぱり我が家の幸せな日常を願っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?