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対談というかたち

販売から4日目、販売予定部数の1/4の予約が入ってちょっと安心しています。。(初版を増やす。。。?兆し。。。?)
https://ruiitasaka.theshop.jp/items/33227106

今日は、本を作るために収録した協働設計者である西澤徹夫さんとの対談について書こうかな、と思ってます。

先生でもボスでもなく

この協働にあたっては、質問を多くもらうのですが、半麦ハットにとって西澤さんは私の相談役というのがシンプルかと思います。先生のように、何かを指南してある方向に導こうという印象はなく、いわゆるボスのような、こうしなさいという指示をされたことは一度もありません。初めての確認申請などの事務手続きや意匠的な設計の相談も同じような感覚です。

このような協働の仕方は、これからどんどん増えていくと思いますし、西澤さんは八戸新美術館の設計でも共同設計というかたちを取られています。
実際、コロナで会社のかたち(事務所の場所が必要なのか、本業のみで良いのか、、、)も変わってきています。私自身現在フリーで動きながら、週に数日大学の助手をしたり、いくつかのプロジェクトの打ち合わせのために相手の事務所に行ったり毎日流動的に活動しています。そのようなあり方に、今の所不満はなく、飽き性の私にとってはちょうどよく感じています。

その都度プロジェクトパートナーを変えていくやり方にはフィジカルには納得しつつも、作品として発表する時のクレジットに悩むことがよくあります。互いの了解があればどのように書いても問題ないのですが、作品の「テキスト」が困ります。

対談

そんな時に一番しっくりするのが「対談」なのではないかと最近思っています。雑誌に論考を共同で書いた時も、出来上がった文章というよりは、書いてる最中で議論した内容、その言葉使いなどに本質が垣間見れました。文章になる手前の「プロセス」的な未完成な状態だから良い、と感じているのではなくて、単純に「わかりやすい」のです。

今回半麦ハットで本を作りたい!と言い出した私ですが、西澤さんの存在をどう言う風に扱おうかと悩んでいました。私が半麦ハットにかけてきた思いと西澤さんのそれは全く別物で、半麦ハットのコンセプト(があったとしても)とも別物です。だからといって、他の寄稿者と同じ客観であるのもおかしな話やん〜〜〜と考えていました。
その結果、対談にしよう!と言うことになり、他の寄稿者や私の「はじめに」のような文体と全く違うあり方でかたちにすることに決まりました。

余談ですが、私は作品と自分自身が一致してなくて良いと考えています。例えば、ミニマルな作品を作るからといって、家のインテリアもミニマルな人には少し狂気(嘘臭さ)を感じるような。だから、自分の発話的テキストと、作品のコンセプト文は区別したいと執拗に思っているところがあります。

そういう執拗さによって、最近発表した「TANNERAUM」のテキストも、クライアントであり、かなり濃密に一緒に考えた佐藤熊弥さんと対談形式で発表しました。(他にも、作家の奥さん、黒坂さん、建築家の大村さんにも参加してもらいました。)建築をはじめ色々な創作は、言葉にできない深みを持っていて、それを大事にしたいと思うのです。(言葉にする喜びも感じているのですが、その折り合いはまだまだ鍛練〜)

もうすぐ公開されるのですが、今年の春に会場を設計した展示についても、アーカイブ(コロナで閉幕したのでそれのアーカイブ)を鼎談でまとめることになったり、最近そういうかたちの面白さを感じています。
昔は、そういう対談というものにどこかダサさを感じていて、早く明言してくれ〜、と思っていました。が、最近は、対談の中に見えるその人らしさも含めて楽しめるようになってきました。特に、対談は知らない分野でも、知らないことを聞き手が補ってくれて、自然に理解できるところが面白いです。

私を向いていない安心感

笑っていいとも!のテレフォンショッキングも、昔は興味なくて、「あ〜またこのコーナー始まっちゃた」とか思ってたのですが、今だったら面白くて見ちゃうだろうな、と思ったり。徹子の部屋とかも。

なんというか、私たち受け手側を見てないところがちょうどいい居心地なのでしょうか。勝手にやってくれているというか。まあ聞いてあげましょうか、みたいな気持ちになる感じ、でもトイレに行きたくなったら行っちゃうね、みたいな。

話が逸れちゃいましたが、そういう気分で手に取って欲しいという感じです。

どうぞ!!
https://ruiitasaka.theshop.jp/items/33227106

見出し(追記)

タイトル「設計の進め方. 誠実な向き合い方について」
・細かな調整の先に建築は建っている
・現場での選択
・砂上の楼閣を現実にしていく
・誠実さ