轍のゆくえ



狐と本性

狐と残穢

 適当な部屋に急ぎ足で駆け込む。身を隠せる場所がないか探したが特にはなさそうだ。隠れた部屋は物置だったようで、年代物の着物や骨董品が部屋の端に追いやられていた。何をしなくても湿気と埃っぽいニオイが鼻を掠める。それに混じり、白桃のような甘い香りも。

「甘い…神のニオイか」

神には香りがあるらしい。神たちには自覚はないが、妖怪には香りが明確に嗅ぎとることができる。虚翠にも可能であった。神はまるで極上の蜜。白桃のように甘く、心をどこか落ち着かせる。
 そこにあったのはかつては大切にされていたモノのようだ。香りからして、まだここ百数年程前に付喪神がいたらしい。この館の様子からも察せるが、長年人もおらず神も消えてしまったようだ。
…さぞかし寂しい最期だっただろう。
 状況に合わず、そんなことを考える。
 虚翠はそれらを広い集めた。微かな神の力と妖気が未だ生きていた証としてこびりついていた。何十年、何百年と宿っていた付喪神や妖怪の気配はそうそう消えはしない。何十年という時を経てゆっくり薄れていってしまうのだ。彼らの痕跡が消えてしまえば、彼らがいたことを証明するものはもう残っていない。最後の最期。本当の遺品である。指先で触れれば、返事をするように指を押し返したように感じた。
 今回はそれを利用させてもらう。罪悪感が無いわけではない。彼らがいた証を消し去りたいのでもない。それを使って軽い脅しをするつもりである。居なくなったものを残しておいても、仕方ない。どうせ朽ち果てるのを待つだけの運命だ。虚翠は部屋の中央にそれらを集め、ガラクタの山を作る。下品なドタドタと存在を知らしめるように走ってくる気配を感じながら、できるだけ山に隙間を作らないようで組み合わせた。
 隙間が空いてしまえば、そこから不純物が混じるかもしれない。見せかけなのでまあ今回も威力は気にしていないが、そこそこの派手さは欲しい。相手には戦意喪失させられるなら多少の傷も受け入れてもらう予定だ。これは遊びじゃない、争いなのだから。覚悟してもらわなければ、命を落とす可能性ぐらいは承知しているのは当たり前である。



 蛍の戦士たちが虚翠が逃げ込んだと思われる部屋の前にたどり着いた。皆息を潜め中の様子を伺う。耳を澄ませてみるが、特に物音はしなかった。相手も待ち伏せをしているらしい。ただでさえ一対多。一斉にかかれば勝てないわけではない。しかし数では勝るとはいえ、油断は禁物である。他の蛍たちはやられてしまったらしいし、相手の底も計り知れない。報告によると息切れ一つしていなかったそうだ。化物のようである。
 蛍たちは何も話さずアイコンタクトを交わすと、予め決めてあった作戦を実行する。まず二手に分かれる。一方が正面からもう一方が相手の背後から攻め入る。さらには正面から突撃した後、部屋を丸ごと封鎖し封印をかける。これは封印の兆しを察知され、逃げ出されないようにするためであった。特攻し相手を抑えてもらう人材はどうしても必要だった。作戦に了承してくれた第一陣には、感謝しきれない。後に何があっても彼らは誉め称えられることは間違いないだろう。
 作戦の準備はもう既に済んでいる。後は合図を待つだけ。たとえ敵は正面からの攻撃を見事捌ききれたとしても、封印をされては外には手も足も出まい。それからのことは、それから考えればよい。犠牲者を減らすことが何よりも優先すべきことである。
 たとえか弱い封印んだとしても、解くにはかなりの力が必要である。正確ではないが約二倍以上の力が求められると言われるのが通説だ。仕掛ける側にも実力が求められ、ただでさえ少ない残りで成し遂げなければならない。封印に数を割く分、こちらも痛手を負うがそこは数でカバーする。それぐらいの覚悟がなければできなかった。

 息を飲み、皆に視線を合わせ部隊長は大きく息を吸った。そして肺に満たされた空気を一斉に全て吐き出す。

「突撃ィィィ!」

第一陣が雄叫びをあげて部屋に突入していく。倒された障子が無惨にも押し潰されて行った。続くように部隊長は第二陣に指示を送る。

「展開開始ィィィ!」

また雄叫びをあげて、戦士たちは結界の呪いまじないを唱え始めた。
 呪いには何種類か存在する。今回蛍たちが使用したものは、簡略化されたもの。簡略化により威力は少々弱まるものの、二十秒もあれば唱え終える。 

_此くなりき 我れ等 腐ち草なるものなり 我が呼び声に応じ給え あなかしこあなかしこ 契て返す_

 戦士たちの身体から妖力が奪われていく。奪われた妖力は辺りに散らばり、各々の妖力がくっつき合い一つに合わさる。一つまた一つと塊が出来上がり、やがて一つの壁を形成する。厚さは薄いが、ありとあらゆる外敵の攻撃を通さない。それは神の攻撃でさえも_とまことしやかに囁かれるほどである。防御結界と言われる、蛍たちが得意とする術である。

 壁は戦士たちの目の前で断崖絶壁のように反りたち、戦士たちを見下ろしていた。敵が逃げた様子はない。空気中を舞う砂埃が視界を遮り、中に入っていった戦士たちの様子も伺えない。外で待機していた部隊長を含む二軍は喉をならしながら、埃が落ち着くのを待った。
 不思議なことに物音一つしない。約二十もの精鋭蛍たちが突入していったというのに。時間が経過するにつれて、その場を支配していた緊張感が少しずつ緩んでいく。もしかして仕留めたのかもしれない。そんな希望が脳裏に過った。そのとき、轟音と共にガラスが割れる音がした。
 部隊長は気が付けば壁に凭れかかっていた。後頭部の鈍い痛みを感じる。壁まで吹き飛ばされていたらしい。一体何があったのか。全く分からない。結界は完璧に張れていた。あれを破れるはずがない。とすれば奇襲を受けたのか。頭から何か液体を垂れさせながら、部隊長はゆっくりと身体を起こした。
 誰かいないか。呼び掛けるも返事はない。ふと遠くに人影が見えた気がした。目を擦り再び確認するが、気のせいではないようだ。無事な戦士がいたらしい。人影は次第に大きくなり、正体を現した。部隊長よりも大きく、長い金髪。鋭い爪がまるで凶器のように見える。

「ああ、やっぱり煙てぇ…やりすぎたか?いいや、あれぐらい派手な方がいい感じかもな」

軽く咳き込みながら、虚翠は頬や服についた汚れを払う。致命傷になるような大怪我は見当たらなかった。

「な、なぜ…なぜ無事なのだ!」

化け物だ。部隊長は冷や水を浴びせられたようであった。ある程度の実力さは予測していた。だがあの数、部屋に突入していった一軍をものの数秒で倒せるはずがないのだ。彼らの実力は名のある妖が認めるほどの折り紙つきである。早々簡単にやられるはずがない。
 虚翠は首の後ろに手をやり、ポリボリと掻きむしりながら言った。気だるそうな様子ではあるが、その表情は口角を上げ不敵に微笑んでいる。

「んー、まあお前らのお陰だな。あれだけドタバタやってくれば、嫌でも埃がたつ。空気中に飛ぶだけでよかったのに、さらには結界で密閉してくれるとは……お陰でやり易かったよ」



狐と作戦



 時は遡り、一軍が部屋に突入した頃。

「突撃ィィィ!」

突然大声が虚翠の鼓膜を刺激した。思わず耳を塞ぐ。どれだけはた迷惑か考えたことがないらしい。

「五月蠅ぇ…」

少しイラついてきた。虚翠は舌打ちを隠そうともせず、積み上げた残骸の前に立った。勢いづいた蛍たちが、障子を蹴破り次々と部屋に突入してくる。片手に盾やら刀やら。なんとも物騒な連中である。彼らに対して、虚翠は武装はなく丸裸。決着はあっさりつくかと思われた。
 虚翠を刀を見据えた刀を避けながら、抑えようと飛びかかってくる盾持ちを掴んでぶん投げる。ぶん投げた蛍がまた違う蛍に当たって、まるでボウリングのようであった。
 そもそも室内戦に多くの人員に割くとは、愚策のように感じる。どうしても動きずらくなるし、戦士一人一人の実力を発揮できなくなる。

「展開開始ィィィ!」

またもや怒号がして、辺りが妖力で満たされるのが分かった。対処しようと動き出すが、纏わりつこうとする蛍たちがうざったらしい。何が何でも行かせないという気概を感じた。また舌打ちをしながら、道を作るが蛍たちがすぐに起き上がり思ったように進めない。
 結局対処する間もなく、妖力は束となり結界を産み出した。結界ができたことを黙視すると、必死に纏わりついていた蛍たちの手が一瞬緩む。
 外と結界で区切られ、完全に虚翠のいる空間は断絶され出る方法は限られる。手っ取り早く外に出るには、結界をどうにかするしかないのだ。
 結界は永久不滅ではない。先程述べたとおり、術者の意思によって解くことも可能である。しかし構成と解除でとてつもない量の力を消費する。よって、誰もしない、非効率なのだ。今回は結界術者は空間の外にいるし、簡単な術者をボコるという方法は通用しないようだが。
 平和的解決は無理なのは明白。ならするは実力行使。

「怪我しても喚くなよ。お前らから仕掛けてきたんだから」

 埃が舞う空間に着火可能な着物やら布。それに燃えてくれそうな獲物たち。下手を打てば、皆窒息して死んでしまっても可笑しくない。相手が開けてくれないっていうのなら…?まあ、致し方なかったと言えよう。

 突然だが、現代において事故は多発している。交通事故など様々なものはあるが、不思議なことに不注意で起きる事故。その中でも、不思議と爆発したと供述されるものは意外とある。実際に爆弾を使用したのではない。空気中のチリや埃に火がつく。たったそれだけで爆発が起きるのだ。原因は粉塵爆発と呼ばれている。
 虚翠の手から狐火が一瞬出現した。狐火は空気中に飛んでいた塵や埃に着火する。火は次々に連鎖し…次の瞬間、辺 りは   火 に    包ま  れ   た。
 そし   て内 側か   ら の劇 的 な 圧 力 に 耐     え きれ な
 く な っ た 結 界は、    呆気 な  く吹       き       飛 
ぶ。




 「結界っていうのは、ありとあらゆる攻撃を防ぐ…そう言われてる。実際、その通りだな。間違いではない。例え神であっても攻撃は結界に吸収され、結界の中にいる自分に届かない」

だが、と虚翠は続ける。それはある場所に集中するからだ_と。
 結界の仕組みは簡単である。結界はよく硝子に例えられる。硝子のように薄い結界は、攻撃を受ける場所_その一点の防御においては最強の名を冠する。しかし意外と知られていないのは、結界全体に及ぶような力と対峙したときの話である。結界は薄い。そのため防御をするとき、その一瞬だけその場所に力を集中させるのだ。とある場所に力が集中すれば自然とその他の場所は守りが薄くなる。
 つまりは全体を攻撃すれば、結界は容易く破られるのである。こうして脱出した虚翠は煤と汚れに包まれながら、姿を表したのだ。


「そ、それがどうしたというのだ!俺は部隊長である。これしきのこと、予測済み。俺は最後の一人になろうとも、立ち上がり戦う!」

部隊長は落ちていた刀を拾い上げ構える。数での制圧はもはや叶わない。いくら強がろうとそれは現実なのだ。圧勝は無理でも、相討ちに持ち込む。この場に来るまででも相当の蛍たちを蹴散らしてきた。虚翠|《神》とて体力は無尽蔵にあるわけではない。いつか底が来る。

「俺は負けられんのだ」
「いいね。男前な発想だ。そういうの嫌いじゃねぇよ」


 部隊長もとい吉経よしつねは刀をを構える。部隊を率いる立場である吉経は、蛍たちの中でも指折りの実力者である。若かりし頃から才能を生かし、底辺から頂点に目掛けて切磋琢磨してきた。何もかもを己の実力のため、捨てることさえいとわなかった。
 その猛者である吉経でさえ、目の前の化け物には適わなかった。金属同士のぶつかり合う音が部屋、屋敷中に木霊する。

「ん、まだやれんだろ。俺も久しぶりで腕がなまってんだ」

そう言って、虚翠は脇差を奇妙に構える。その構えはどこの流派とも知れないものである。素人のように見えるものの、どこか隙の無さを感じさせる。吉経は安易に近づけず、刀の届くギリギリの距離で戦っていた。
 距離で言えば、吉経が有利である。虚翠は一歩踏み出さなければ、刀を届かせることができない。上手く隙をつくことさえできれば、吉経はいつでも打ち勝つことができるはずであった。

「俺もまだまだだったようだ。精進しなければな。そんな可笑しな構えでこれほど俺と渡り合えるヤツがいるとは」
「コレはどこかの流派を見様見真似でパクったヤツだ。ソイツも適当にしてたから、俺自身合ってるのかどうかも知らねぇよ」

虚翠が一気に距離を詰める。そして突きを仕掛けたがアッサリと避けられ、吉経は刀を薙ぎ払う。虚翠は即座に後ろへ後退した。首に痛みを感じ、手で触れると何か液体が付着していた。避けきったつもりだったが、甘かったらしい。ヒリヒリと鋭い痛みが現実を教えてくれる。
 虚翠は吉経の懐に滑り込み、横一文字に薙ぎ払う。吉経は一歩引いてそれを避け、袈裟に斬りかかる。刀を構え受け流すと、虚翠は鍔迫り合いに持ち込んだ。全身の毛が立ち、興奮が抑えきれない。

「段々調子が上がってきたな。そっちはどうだ?」
「どんなときにも冷静に、が俺のポリシーだ。この吉経、この程度で揺らぐわけにはいかぬ」
「そうか」

虚翠は刀を押し切り、吉経は力負けして重心が後ろに動く。刀は遠くに飛ばされ、障子に突き刺さった。数歩後退し、踏ん張り直したころには、吉経の眼前に虚翠の刀が迫っていた。虚翠は上段から下段に向けて刀を振り下ろす。吉経は咄嗟に部下の持っていたと思われる脇差を引っ掴み、迫りくる刀を防いだ。
 吉経の額から汗が流れ落ちる。今の一瞬、判断を誤れば体は真っ二つに叩き斬られていただろう。状況は虚翠が優勢。一瞬の隙でも隙を突かなければ、また力で押し切られるのも時間の問題である。

「さっきのは良かったなぁ…あの動きをもう一回しねぇの?あれは今までで一番よかったと思うんだがなあ」

口角を上げながら虚翠は言った。
 無性に面白くなってきた。さっきから己の中を動き回る血液が沸騰しているかのように熱い。足から頭まで、敏感になっていく。どんな音でも逃さない。虚翠は本能に従って、獲物を仕留めようとした。それが当たり前のように感じていた。流れる血の香り、抑えきれぬ興奮、肉を割くあの感覚。全てが全てが愛しい。手に入れたい。どうしても。

「…なあ、楽しいな。これ」

虚翠は何故か自身の首に刀を当てる。薄皮が切れ、赤い血が滴り落ちていく。ゆっくりと、ゆっくりと。

「ついに正体を現しよったか。化物め」

瞳孔が開き、口から涎が溢れだそうとする。虚翠は機嫌良さげに笑う。細められたその瞳に映るのは、血にまみれた肉である。
 吉経は舌打ちをした。何もかも上手くいかない。今だ気絶し足元に転がる部下は、目覚める様子はない。暫くはぐっすり眠っているだろう。自分だけの力でどうにかするしかない。
 吉経の気が移ったのは一瞬、一秒にも満たない時間だった。吉経の横を風が吹き抜ける。否、風ではない。虚翠が握っていた脇差が、吉経の後ろに突き刺さっていた。

「外したか。手元を狂わせたつもりはなかったんだが、狙いが甘かったか?」

虚翠は子供のように首をかしげる。さっきまでの虚翠には、これまでの殺気は感じられなかった。気絶している部下たちに手を出さなかったため、本気で相手する気はないのだと思い込んでいた。しかし、この有り様。投げられた脇差によって、壁がポロポロと崩れ始めている。一体どんな力を込めたのやら。吉経は刀の切っ先を丨虚翠《化け物》へと向ける。それだけでも、切っ先が震える。金属が揺れ動く音がいやに聞こえた。

「さっきのアレを連発できればきっと倒せるぞ。頑張ってみろよ。生き延びてみろ、足掻け、踠け。お前たちに許されるのは、それだけだぞ」

掌を天に向け、指を曲げ動かし挑発する。いつでも来い。どこまでも余裕を感じさせる。吉経はそれならばと一直線に己が出せる最高スピードで突きにかかった。
 勝算がなかった。それどころか、作戦すらない。とりあえず斬りかかる。一匹の羽虫は足掻くことを選んだ。 吉経のスピードは人間には目で終えないようなもの。確実に対応できるのも限られた人物たちだけだろう。
 吉経は息を殺して風の音だけを聞く。そしてタイミングを見計らい、脇差を振り下ろした。硝子が割れるような音がした。吉経は肩で息をしながら、目の前の光景を凝視する。
 二本の刀が交差し合うように重ねられ、そのうち一本の切っ先がない。折れていたのは虚翠のものだった。
 なんとかやり遂げた。吉経は肩の力が少し抜けたのを感じる。

「驚いた。これを防ぐとは。俺の敗けだな」

虚翠は折れた刀の断面をじっと見つめていた。そしてニヤリと怪しく微笑むと、それをそのまま吉経の腹に突き刺した。狂喜。どこまでも深い何か、が顔を出す。

「敗けたから、お前に返してやるよ。お前から持ち主に返してやってくれ」

吉経の腹から血が溢れる。数歩後退し、吉経は膝をついた。緊張から解放されたと気を緩めた瞬間これだ。戦うときは気を引き締めると決めていたはずなのに。

「残念だったな。刀を折るところまでは上手くいったのに」

虚翠の腹が鳴った。素手で胃の辺りを回すようになでる。ここが今から満たされる。上質な血肉により、栄養となったものが血管から全身に運ばれる。急かすように腹がなる。早く、早くと。もうすぐ空腹が訪れる。
 虚翠は吉経の前に立つ。涎が滴り落ちた。噛みついたらどんな味がするのだろう。蛍を食べるのは初めてだ。妖だから、妖怪よりは旨いのだろうか。腹が減った。
 吉経は顔を痛みで歪めながら、近づく虚翠を見る。身体が拒否反応を起こすように震える。危険だと。これ以上近づかれてはいけないと。

「いただきます」

虚翠が刀を包丁のように構える。吉経はもう諦めてしまった。逃げられないと分かってしまったのだ。この場から逃げ出せば、部下たちはどうなる。最悪の結末を迎えるのであれば、己も共に向かう。固く決めていた。


「こらこら、なにやってるの。丨翠《スイ》ちゃん、目を覚まして」

場に削ぐわぬ優しく間延びした声が聞こえた。かと思えば、声の主は虚翠の背後に立つ。そして虚翠の目を隠す。そして耳元で優しく囁いた。

「落ち着いて。大丈夫。それは一時的な乾きだよ。
花見月くんを助けるんだろう?しっかりしな。虚翠」

虚翠が呻き声をあげる。辛そうで、苦しそうで、聞いていられない。悲痛な声であった。
 何が起こったのか分からず、吉経は呆然とその光景を見つめる。血が足りず、呆けていただけかもしれないが。力なく壁に凭れ、なんとか意識だけは保っていた。
 そんな吉経の様子を横目に隠成は、一層優しい声で語りかける。

「変なのに取り憑かれたんだね。大丈夫。
花見月くんが心配で、気が気じゃなかったんだ。少し休憩しな。大丈夫だよ、花見月くんは無事だからね」
「…花見…月…は」
「大丈夫。無事だよ」

虚翠は力なく項垂れるようにして、やがて気を失った。傾いていく虚翠の身体を隠成は受け止めた。






狐と不仲?

 ぼんやりと天井を見た。木目が人の顔に見える。あれは犬のよう。あっちは猫。
 さっきまで何をしていたのか思い出せない。確か中々骨のあるヤツと戦っていて、途中から意識が保てなくなった。そして気がついたら現在に至る。空白の時間何があったのだろうか。
 虚翠は身体を起こした。身体にかけられていたと思われる羽織がずり落ちる。翡翠色に上品な模様が刺繍されている見覚えしかない羽織。顔が自然と歪む。

「おはよう。気分はどう?一応、安静にしておいて…って言いたいんだけど、状況が状況だからこんな感じになってしまった。ごめんネ」
「…反省も後悔もしてなさそうな態度だな。相変わらずで安心したよ」

羽織を隠成に(ぶん投げ)返す。隠成は風を上手く誘導して、自分の肩に掛けた。表情が余裕そうでまた一層腹が立つ。

「どうしてこっちにいるんだ。俺を置いて逃げたんじゃなかったのか?」
「わ、逃げるなんて人聞きの悪い。翠ちゃんを置いて逃げると思ってたの」

隠成はわざとらしくリアクションをし、虚翠が眉間にシワを寄せた。顔をしかめられたのが面白いのか、隠成は楽しそうに笑う。

「ちゃんとぜーんぶ片付けてきたよ。それで翠ちゃんを探していたら、ドデカイ音がして驚いたよ。どうせ君だろうから、こうしてきたというわけ」
「俺が聞きたいのはそういうことじゃない」

ため息混じりに、面倒ごとは嫌いだろと聞き返した。隠成は困ったように微笑む。隠成は誰に対しても友好的に話しかけるが、その反面あまり人付き合いが得意でない。むしろ人間が苦手。手先が器用だが、それは長年の積み重ねによるもの。隠成自身は細かいことは嫌い。積み重ねによって、現在の隠成は出来上がっている。
 そんな隠成にとって、虚翠は厄介な存在なはずだ。今回も恐らく面倒をかけただろう。

「そんな顔をしなさんな。自分のしたいようにしてるだけやよ」

隠成は鈴のような声で笑った。

「確かに嫌いだけど、嫌いだからってしないわけじゃないんよ。神として存在してたら、いつか面倒に対処する必要があるのさ」
「そういうもんか」
「そういうもんよ」

隠成は虚翠に手を差し出す。差し出された手をじっと見つめる虚翠であったが、何か晴れない顔をしながらもその手を握る。

「今回は世話になった」
「え、翠ちゃんが素直になるなんて……信じられないよ!」

低い声で威嚇すると、隠成が冗談だってと言い訳をする。この距離、この関係。落ち着くところに落ち着いていた。


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