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南都七大寺 鬼の寺

鬼の寺。
それは南都七大寺のひとつ、元興寺(がんこうじ)。

明日香村の飛鳥寺から引っ越してきた蘇我系の鬼の寺。という、浅い知識となんとなく地元民から聞いてる話は知っているものの、参拝したのはもう何年も前でした。寺の前はときどき通ってるんですけど。是非に行こうと11月上旬に向かったのでした。

本堂の正面。
五色、とても好き。

南都七大寺は七大寺とひとことにいっても、いわゆるコンセプトやサポートする勢力は必ずしも同じではありません。

南都七大寺は
東大寺
西大寺
大安寺
法隆寺
元興寺
興福寺
薬師寺

現在における知名度(観光名所としての有名度)も、けっこう違いがありますよね。

本堂は智光(ちこう)曼荼羅(浄土変相図)特別開扉中でした。
お寺のかたの解説では、極楽往生とは「極楽に往き、永遠を生きること」。

・・・原始仏教の解脱思想とは違うんよなー。
原始仏教は死んだら蓮の花を手折る如く、輪廻も成仏も極楽もなく、そこで終わるという思想だと私は理解しているので、南都仏教は原始仏教ではなく、やはり当然に大乗仏教。

休憩所もすてき
休憩所にしてくれてるところも、由緒ある建物です。


法輪館では菅原遺跡と行基・長岡院展を開催中で、STAFFの名札のひとが何人かいらっしゃっいました。ひととおり見終わったあと、声をかけさせてもらいました。

「不勉強なもので、厚かましいお願いですが、簡単に由緒などを案内いただけませんでしょうか。」

そして、めっちゃ丁寧に専属ガイドをしていただいた・・・

・南都七大寺とはいえ、共通しているのは平城京遷都時に建立されたこと。いわゆる法要や葬儀の場ではなく、学問所として建立されていることです。

・元興寺に置かれている仏像の多くは鎌倉のもので、実は由緒のはっきりしないものも多いんです。聖徳太子像もありますが、これも鎌倉時代のものです。

・聖徳太子像があるのはもちろん!聖徳太子と蘇我氏には深いつながりがあるからですね。

・大安寺と同じように、もとは広大な敷地があったのですが、敷地内を民衆が(勝手に)占拠、生活をはじめて、寺の敷地の大部分は、(今の)奈良町になっていったのです。

・江戸時代は徳川の庇護があって裕福でしたが、明治の廃仏毀釈で廃寺にちかい時もあったんです。小学校の校舎になったり。西大寺預かりになったり。昭和10年代はお化け寺扱いだったのです。

・ガゴゼ(元興神)の鬼、元興寺は鬼の寺というけれど、節分の時は「福は内 鬼も内」というのです。いい鬼なんですよ。

・平城京時代は、大乗仏教しかありませんね。「結縁(けちえん)」「勧請(かんじょう)」念仏講の考え方を受けていますね。

入山16:30まで、拝観は17:00まで。で、お寺を後にしたのが17:00前。
お寺でのとっても丁寧な説明がほんとうにありがたい。ならまち界隈は、数時間前のひとどおりが一気になくなり、店も閉まり始めていきます。
表情を変えはじめる、静かなならまち

ならまちを歩いていると、あちらこちらで元興寺の名残に気づくことができます。


もともと飛鳥に在し、平城京遷都反対だった蘇我氏を強引に奈良に移して元興寺建立。
乙巳の変(大化の改新)で蘇我氏滅亡現場にいた35代斉明(37代皇極)天皇は、生涯にわたり鬼につきまとわれた・・・
ということでガゴゼの鬼は蘇我氏一族か蘇我氏の誰か特定の人。
反蘇我からみれば怖い鬼。
蘇我派からみればいい鬼。
と私は理解しています。

・・・炎上・・・

ならまちぐるぐる。

庚申堂も、趣あっていい。
つるされとる。
こんにゃくではなくて、
さるを吊るすことにしたのですか。
17:00 人がいなくなったな・・・
ひっそりと、門。
なかはこんな感じです。

わたし、蘇我びいきなんですよね。
蘇我氏といえば
元興寺、飛鳥、新羅、勾玉、翡翠、越、日本海、武内宿祢、聖徳太子、‥
‥畝傍山
もそうなのだろうか。ネストリウス派の影響も感じる。たぶんこんにゃくは関係ない。

近畿はこれまでもこれからも、古代からの鬼や妖怪や共存していますね。




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