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茶碗の話

コン、コン、と深夜に扉を叩く者がいた。

真夜中の客人が幸福をもたらすことはほとんどないと知っていたので、家主の男は眉を顰めながら読みかけていた本を閉じた。客人は家主が顔を出すまで手を止める気がないらしい。一定の間隔で叩き続ける律儀さにどこか薄気味悪さを感じつつも、家主は扉越しに声をかけた。

「宿探しなら他をあたって下さいよ。」

ややあってから、返事があった。

「宿探しではありません。少し、中でお話を聞いてくれませんか。」
「…そこで待っていて下さい。」

客人は神経質そうな掠れた声だが、その言葉には何か言い知れぬ逼迫感が含まれていた。家主は家の中に戻ると、書斎の戸を閉めてから台所に立つ女中に声をかけた。

「相変わらずかい。」
「はい。」
「すまないが、お茶を一杯入れてくれないか。こんな夜中に客が来てね。」
「はい。」

女中はゆっくりと頷いた。女中は、不眠症であった。全ての仕事を終えたはずの彼女がこうしてただ台所にある小さな窓の前で立ち尽くすのは、家主にとってはすっかり見慣れた様子になっていた。何とかしてやりたいとは思うものの、家主に女を救う手立てはない。

扉の鍵を外し、家主は客人と対峙した。

客人は、青白い肌でできた痩躯を頼りなさげに揺らしたまま、瞳だけが不思議に煌々と闇の中で輝いていた。

「すまないが、部屋には入れられないよ。」
「滅相もない。玄関で十分ですよ。」

客人はそう言うと、上り框に腰を下ろした。家主もその場に座り込んだが、あまり客人の近くには寄りたくない。客人の横顔が、ちらりと家主を見た。

「私、この近くの山の中に窯を持っているんです。」
「そうでしたか、存じませんでしたね。」
「生業にするには小さな窯です。まだ売り物にもなりません。」

何を返すべきか迷っていると、折よく女中が盆を手にして現れた。こんな夜更けに茶が振る舞われるのを特に気に留めるでもなく、客人は当然のように茶を啜った。女中は家主の茶碗と急須が乗った盆を置いて、すぐに廊下の奥へと消えていった。

「美しい方ですね。」
「ええ、まあ。それより、お話とは何でしょう。」

今からくどくどと女中について話す気はなかった。客人はさして気を損ねた風でもなく、やや精気を取り戻したように語り出した。自らの関心深い箇所に差し掛かると、客人の瞳は何かに取り憑かれたかのごとく、怪しく光り出した。しかし話が終わる頃にはまた、青白い顔には落ち窪んで淀んだ目が
家主を呆然と見つめるのみだった。

客人は述べた。

 この茶碗は、窯の場所から随分と離れた森の奥にある、寂しげな川の近くにある土で焼いたもので、さして期待もせず成型を始めてみると、両手が土に導かれるかのように美しい曲線ができた。
 それを窯で焼いている間はそわそわと胸のさざめきが止まらず、焼成が終わるまでは日がな一日食べ物が喉を通らなかった。そうして完成した茶碗は、何の色も付けない素焼きのはずだが、薄い朱色の線が器を囲むように何本も現れていた。
 この傑作を街へ持って、本格的に商売を始めようと思ったが、今晩、枕元に茶碗を置き寝ているところへ、奇妙にすすり泣くような声が聞こえた。それはどうも、枕元から聞こえてくる。となれば、主は茶碗に違いない。薄気味悪く思い、茶碗を持って外に出ると、その声はより一層大きくなる。慌てて風呂敷で包んでみても、何ら変化はない。
 途方に暮れて彷徨っているうちに、茶碗が身体を何処かへ引き寄せた。それは、ろくろに手を置いていただけでいとも簡単に成型が進んだあの感覚と似ている。

「そういうわけで、茶碗に従ってここへ持ってきたのです。」
「なんだか馬鹿げていますね。」

家主は客人が風呂敷から広げた茶碗を訝しげに見つめながら言った。
客人の言う、すすり泣きなど少しも聞こえない。

「隙間風でも吹いていたのでは?」
「ついさっきまで聞こえていましたよ。だけど、着いた途端、静かなもんです。」
「それで、この茶碗をどうしようと言うのです。」
「無論、こちらへ置いていただこうと思いまして。」

客人の目が真っ直ぐに家主を見つめた。

「日が昇るまでどうかお傍に置いてくださいませんか。それで何事もなければ、ただのつまらない客の忘れ物です。少し惜しいですが、捨ててしまっても構いません。」

家主が答える暇もなく、客人はいそいそと空になった風呂敷を畳み、出された茶を一口に啜った。

「それでは。」

客人はあっという間に扉を開け、家主の目の前には怪しげな茶碗だけが残された。恐る恐る持ち上げてみると、手から滑り落ちそうなほど軽い、よくできた茶碗だ。家主は仕方なしに台所までそれを運んだ。女中は、まだ小窓の前でじっと立っている。

「妙なお客だったよ。ほら、こんな茶碗を一つ押し付けてきた。」

家主が差し出した茶碗を、女中は穴の開くほど見つめていた。

「……お姉さん?」

女中の唇は震えていた。

その夜以来、女中の不眠症は息を潜め、眠る彼女の枕元には件の茶碗が大事そうに置かれている。



夜更けに屋敷を訪ねてから数年後、客人の男は鍛錬に励んだ甲斐があり、今は陶工として街で売り物ができるようになっていた。その日も朝からたくさんの腕や皿を積んだ荷車で山から街へ降り、得意先になった飯屋や宿屋を回っていた。

その日、娘が嫁入りをするので祝いの席に使う器が欲しい、と懇意である茶店の店主が男を呼び止めた。品物の要望を聞いている間、店の奥では女たちが娘に合う晴れ着をあれこれと試している。照れながらもそれに応じる娘の横顔はえも言われず美しかった。

「あんな美人にお目にかかるのは久方ぶりです。」

男は、例の屋敷にいた女中を思い出していた。

「ちょうどあの山の辺りですかね、大きな家のをご存知ですか? あそこに、そりゃ綺麗な女がいましてね。まあ、女中なんて身分ですから、ご主人の娘さんとはまるで器量が違うでしょうが。」

店主はそれを聞いて、少し妙な顔つきをしていたが、やがて男に言った。

「…そりゃ、君、それは女中じゃないよ。」
「へ?」
「君は他所から来たから知らんのだろうね。あそこの家は、昔こそ名家と言われてたが、ある時から世継ぎになる子供が産まれない…、というよりも、あの家の男と結婚すると、その妻になる女たちが次々と若くして亡くなるようになったんだ。それで次第に子孫が絶えて、その男がなんとか娶った女も、やはりすぐに亡くなってね。噂では屋敷にいる死んだ女たちの幽霊が取り憑いた…、なんて言われているが。」

男は背筋に薄寒いものが走るのを感じた。あの夜、ごく普通の初老に見えた家主にそんな過去があったとは。

「ではあの女中、まさか…」
「違う違う、あれはその女の妹さ。ずいぶん昔、この店にも来たことがあるよ、確かに美人だったね。」
「なあんだ、脅かさないでくださいよ。」
「奇妙なのはここからだ。姉が亡くなったのに、『帰ってこない』と言うんだ。挙句、『どこにいるか知りませんか』、とここらの店にしつこく聞いて回ってね。業を煮やした裏のおやっさんが、屋敷まで行って当主に聞いたら、『葬儀は終わっております』の一点張りだったそうだ。それで結局はあの妹が錯乱してるんだろう、ってことで話は終わったんだよ。」

それから妹はぱったりと街へ現れなくなったそうだ。男は店主の話を聞いて、あの茶碗のことを考えた。川の近くで採れた土、導かれるように完成した茶碗、浮かび上がった薄い赤、屋敷を忍ぶすすり泣き…。

「どうかしたかい、顔色が悪いよ。」
「い、いや…、何でも。それにしてもその妹、何故あそこで女中の真似事なんかしてるんです?」
「さあ。まあ、これは私らの勝手な想像だが、嫁に入ると早死にするもんだから、代わりにあの妹を女中扱いにして形だけでも世継ぎを…、って考えなんじゃないかね。」

男は店主に別れを告げて、再び荷車を引いて、全ての仕事が終わると帰路に着いた。途中、あの屋敷に続く道を通りかかったが、少しだけ立ち止まっただけで、それ以上進むことはしなかった。

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