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一人時間に元気をもらった日

「資料は、明日の朝イチになりそうです。すみません」
午後4時、別の部署から電話が入った。

明日の朝開かれる会議の資料が、まだ出来上がっていないという。
よく聞けば、上司の最終的なチェックがこれからだそう。
もう夕方なのに……
そこから修正して、出来上がった資料を必要部数コピーしてたいら、きっと日付をまたぐだろう。

ほかの資料も含め、会議室の椅子や机、鉛筆やメモ用紙の準備まで、全部そろっている。あとはこの資料が届けば、前日中に会議の準備が完成するのだけれど、仕方ない。

「分かりました。じゃあ、朝イチで持ってきてください。私も早く出勤して、資料を受け取りますので、お願いします」

いつもの出勤時間より大幅な早出が決定した。

不夜城と揶揄される会社で働いている。
一晩中オフィスの電気が消えないという意味。
幸い、私のいる部署はそれほどではないが、同じ会社の友人たちは、連日、日付が変わるまで働いている。
明日の会議資料を、前日の夕方から本格的に作り始めるなんてこともザラ。
人が足りない、仕事が膨大すぎて追いつかない、突発的事案が多すぎる、トップの日和見的判断。不夜城化する理由はいくらでもあって、それがあまりに複雑に絡み合っているため、働き方改革といえども、改善の糸口がどこにあるのかすら全く分からない状態。
そして、コロナ対策で、ますます仕事は増える一方。

電話で、資料ができないと言った担当がいる部署は、不夜城の中でも一、二を争う忙しいところ。そんな事情を知っていれば、早く資料を出せなどど言えるはずもない。

だとしても、やっぱりモヤモヤする。
その日も結局、あれこれとその日の会議の残務処理や溜まったルーチンワークを片付けていたら、午後10時を回っていた。

明日も早いのにな……

渋滞緩和のための時差出勤のおかげで、私の出勤時間はわりと遅くて午前9時半。明日は1時間早めて、8時半には出勤したい。
車通勤が主流の地方都市の道路渋滞はひどい。渋滞を避けるとなると逆算すると、遅くても7時半には家を出なければならない。
家族の朝ごはんを作って、娘を送り出し(せめて弁当は休みにしよう)、自分の身支度をしてと考えると、やっぱりいつもより早く起きなければならないみたい。

ここ数年は、夜も忙しい。
子供たちの学校や塾や習い事の送り迎えが忙しいから。
子供たちの学生生活は、大きくなるにつれて時間が遅く不規則になる。親もそれに合わせて行動していると、どんどん自分の時間が削られて細切れになっていく。とにかく、まとまった時間が取れない。かといって、睡眠時間を削れば、翌日にこたえるお年頃。

なんだか自分の時間が自分のものでない感覚。

唯一、自分の時間が持てるのが、朝。
子供たちを学校に送り出して、夫が在宅勤務を始める。それから自分が出勤するまでの1時間が私の時間。
淹れたてのコーヒーを飲みながら、YouTubeを見たり、SNSを覗いたり、noteを書いたり、本を読んだりして過ごしている。オフからオンに切り替えるちょうどいい時間。
誰にも邪魔されることなく、1時間をまるまる使える贅沢な時間。

それが、明日はその時間が取れない。代わりに渋滞に巻かれながら、仕事に向かう。
私の唯一の楽しみを奪われて、モヤモヤした。

誰が悪いわけでもない。
それに、わずか1日のことじゃないか。
分かっているけれど、数日前から仕事や家事が立て込んでいて、頭がいっぱいいっぱいだからか、いつも以上にイラつく。

もし、仕事を辞めたら、こんな気持ちにならないのかもしれないな。
これからどんどんお金のかかる子供がいるのに、仕事を辞めるなんて、地球がひっくり返ってもできないよな。今は、死んでも働かなきゃいけないんだよな。
友人たちは、あの眠らない建物で、私より早く来て、私よりうんと遅い時間まで働いている。それも毎日のように。偉いな。
それに比べて、たった1日のことで、グチグチ言って、私、ほんとにちっちゃい。かっこ悪い。

などと考えながら床についた。

翌朝、午前6時。スマホの目覚ましがなる。
「起きて、仕事行かなきゃな。やだなあ」
と思いながら、布団の中でゴロゴロする。寒いし、なかなか起きられない。
やっぱり少しでも一人の時間がほしいなと思っていたら、ひらめいた。
7時までに家を出れば、通勤の渋滞に巻かれないことは知っている。
あと、45分。
朝ごはん用のご飯は炊けている。

これは、ひょっとして。

味噌汁を15分で作れば、6時半ちょっと過ぎ。身支度をして、7時前に家を出れば、7時半には、職場近くのスタバに行けるのでないか。

スタバで、朝ごはんを食べてから、出勤したらちょうど8時半ではないか。

「スタバで朝ごはん食べたいから、7時に出ようかな」
布団の中から、先に起きて着替えていた夫に言うと「はい、どうぞ」と軽い返事。

やった。昨夜までの暗い気持ちを忘れ、布団から飛び出した。

起きてきた子供たちにも同じように言うと「あ、そう」と、これまた興味のなさそうな返事。

でも、なかなかそう予定通りにははいかず、家族の朝食の準備や支度に手間取って家を出たのは7時10分だった。
だけど、なんとかひどい渋滞に遭わず、スタバに到着。時刻は7時40分。

朝のスタバはいい。
人がいない。都会なら通勤途中に寄る人も多いのかもしれないが、ここでは朝からスタバに来る人は少ない。来る人も大方はドライブスルーしていく。
今日も、勉強中の学生さんが2人、会社員風の男性が1人、そして私。

カウンターに向かう。
さて、何を食べよう。

ヘルシーにほうれん草のキッシュ?
いやいや、ここはヘルシーは無視して食べたいものを食べるべき。
ドーナツ?
さすがに、朝から油ものはアラフィフの胃にキツイ。
やっぱりここは、スコーンかな。
よし、ホイップをたっぷり付けて食べてやる。

飲み物は、カフェミスト。
ドリップコーヒーにミルクを加えたこれが好き。いつもはダイエットを気にして無脂肪ミルクに変えてもらうけど、今日はそのままで。
カロリー祭り、バンザイ。

「お待たせしました」
店員さんが、にこやかにトレーを手渡してくれる。

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はい、どん。もう美味しそう。
温めなおしたスコーンからバターの香りがする。そしてコーヒーの香り。
窓際の席に座る。
全面ガラスの窓は、東から太陽の光が燦々と降り注いでまぶしい。

スコーンを半分に割る。その半分の断面に、フォークでホイップをたっぷりすくって乗せる。
一口かじると、ホイップのふわふわとスコーンのさくっとした食感。バターの香りが口に広がって、あとからほんのりホイップの甘さが追いかけてくる。

はあ、美味しい。

カフェミストをすする。
熱すぎず、冷めすぎていないちょうどいい温度。

自分は熱いものが苦手なのではないかと、最近気づいた。
熱いものが飲めないわけではないけれど、ポットから入れたばかりのお湯で入れたお茶や紅茶を飲むと、必ず口をやけどする。
それが普通だと思っていたけれど、もしかしてそれを猫舌と言うのか? いや、単に私が不器用なだけだろうか。
最近は、熱そうな飲み物は、少し冷ましてから飲むようにしている。
すると、当たり前だけれど、口をやけどすることもなくなったし、飲み物自体の味がよく分かるようになって、ずいぶん飲みやすくなった。やっぱり猫舌なのだろうか。猫舌の定義が分からない。

今日は本もパソコンも何も持ってこなかった。
スマホのToDoリストを整理したり、食事記録を更新したり、やりたかったけどできていなかった細々したことをしたり、kindleで少しだけ本を読んでみたり。時折、窓の外の幹線道路を行き交う通勤の車を眺めたり。

そうこうしているうちにApple watchにセットしたアラームが振動する。
あっという間に8時が来た。そろそろ仕事に行く時間。
でも、あと10分だけ、延長しよう。

ふうと一つため息をつく。
カフェミストの温かさと、スコーンのカロリーで、体の奥から力が出てくる。

8時10分。

「さあ、やったるか」
トレーを手に立ち上がった。不夜城が待っている。









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