天才児?たちとのロシアンリバー下り(エッセイ再掲)
遠い、遠い、十代の頃の想い出。
年がばれてしまうが、80年代に高校生の交換留学でアメリカの田舎町に1年お世話になったときに参加した、不思議な週末のキャンプと川下りの想い出。
日記でもつけてたら、もう少し詳細を再現できるのかもしれないが、残念ながらそれは存在しない。既に記憶は断片化されて、思い出せる光景は曇ガラスの向こうの霧の中みたいなってしまったが、それでも、強烈に残っているフラッシュバックのようなかけらをガイドに、その出来事をふりかえってみる。
楽しかったよなあ、という想い出というより、なにか振り返って整理しておきたいというような、ちょっとしたテーマ性を持った経験。
いま思うと、アメリカは既に80年代に子供の発達障害の問題について制度としての対応を導入して取り組んでいたというのがわかる。あのシャペロンのカップルを思い出すに、制度だけじゃなくて、べた褒めするようだが、その制度に「こころ」も込められていたと思う。少なくとも、あのキャンプ旅には。
そのおかげで、ともすれば茨の苦難の思春期を送るかもしれなかったあのミスフィット(社会不適合者)天才児たちも、救われ、大げさかもしれないが、その後の人生での支えとなるとても幸せな想い出を作れたのではないだろうか、と今思う。
1.「MGM」といっても映画製作会社ではなかった
留学先はカルフォルニアの田舎の人口3万人くらいの街。主要産業が養鶏ののんびりしたところ。お世話になった家庭はドイツ系3世?の裕福なアメリカ人家庭で、おやじさんが建築家で、長男はすでに大学進学して、ほぼ同い年の次男がいた。
家族、とくに親父さんがえらく明るく、いつも軽い冗談がとびかっていた。次男は内向的だが、親切でいいヤツだった。最初の数カ月は、お互いの文化の違いなど語り合って盛り上がったが、だんだんと関心の方向性が違うのがわかってきて、ちょっと距離感がでた。喧嘩したわけではないが、ちょっと距離感のでたまま1年が経ち、別れを告げて、その後はクリスマスのカードの交換などはしていたが、没交渉みたいになってしまった。我が徳の無さ。その1年は、その後の自分の人生で非常に大事な、異国人との付き合い方や、どこでも住めば都なんだという価値観の出発点のような経験をさせてもらったのに。
言い訳になるが、もしかしたら明るくてミュージシャンでもあった長男に代わる兄弟のような存在が期待されていたのに、僕自身が生まれて初めて直面する異文化の洗礼に圧倒されて余裕がまったくなくなっていったのかもしれない。当時はインターネットもなく、3ヶ月くらいに一度、数分だけ親に国際電話するのがほぼ唯一と言っていい日本語に触れる時間で、まったくの島流し状態。気負いは、息切れする。へんなたとえだが、ウルトラの星から地球にやってきてときどき変身しては怪獣をやっつけようと意気込んでいたが、無理な変身と数ある怪獣との格闘で、常にピコピコ警告音がなっているような状態だった。
そんなときに、その次男が学校で所属していたMGMというクラブのキャンプ旅行に誘われた。
その高校はごく普通の地元の公立高校(アメリカは高校まで義務教育。基本的にその地域に住んでいる子供全員が高3まで通う)。
MGMといえば、ハリウッドの映画製作会社かいなと思ったが、Mentally-Gifted Minorの略でその学校の正式のクラブ活動だった。意訳すると、「高IQの少数派のクラブ」。
念の為にぐぐったら、MGMで、こんなのがでてきた。カリフォルニア州政府が1961年から実施していたプログラム。知能テストで上位2%の生徒に年齢に関係なく大学とかの授業に参加できるようにするのがMGMと。
おそらく、IQが高い生徒を素直にどんどん飛び級させたりもしてその可能性を伸ばそうという前向きの視点と、ともすれば普通の生徒の中では孤立してしまったりする Minority でもある彼らをケアしようという視点もあったということなのだろう。「Mentally-giftedな少数派」ということで。それをMGMと略しているのが、さすがハリウッドのあるカリフォルニアらしくていい。絶対、映画会社名にかけての命名だろう。
僕はとくにIQが高い子供ということではなくて、語学とか歴史とかは好きで真面目にかなり勉強したが、パズルのような数学の問題を解くとかはとくにずばぬけていいということはまったくなかった。おそらく、その次男がクラブに入っているからという配慮か、一応、IQテストを受けてみてそれでよかったらそのMGMにはいったらと言われた。
それでパズルのようなIQテストを受けたが、点数など詳細結果は知らされなかったが、MGM担当の先生がにこっと笑って「楽しいから興味あったら参加してね (join the Club if you like, it's fun)」とだけ言う。たぶんスコアが良かったというのではなくて、ホストブラザーが既にメンバーだということと、この天才集団に留学生をいれたら(田舎だったので留学生は全部で5人しかいなかった)彼らの教育上もおもしろいんじゃないかぐらいの配慮だったか。
それで、そのMGMクラブに参加したが、メンバーはたしか7、8人だった。
記憶にあるイベントは、UCバークレー視察日帰り旅とか、後述のロシアン・リバーへのキャンプとか。
バークレーでは既に飛び級して年は高校3年生なのにもう大学でコンピューターサイエンス専攻中というホスト・ブラザーのもと親友と会った。
これ凄いんだよと、当時の唯一の安価な情報記録媒体だったカセットテープに録音されたアナログのコンピューターの情報の音(昔、モデムで聞こえたような)を聞かせてくれた。僕には、ピーヒャラ、ピーヒャラ、なにが凄いんだかわからんなあ、と笑うしかなかった。今思うと、当時のベイエリアはスティーブン・ジョブスやビル・ゲイツが会社を起こして奔走していたITの草創期の頃だった。
そうそう、たしか、ピザ屋のチャリティ・ナイトもあった。
ピザ屋で、我々がピザをつくるバイトのような形でピザの作り方を教わってから、家族や友達などが来店して、彼らが注文して我々が店員の指導のもとに作るピザを食べてもらい、売上の一部がチャリティに行く、というようなもの。あれは楽しい思い出だった。天才児たちも手を動かし、勤労した。
記憶に残っているメンバーの面々としては、四角い顔をして、体型もどちらかというと四角い小太りのJくん。メガネをかけて、几帳面な感じで、ちょっと甲高い声で話すやつだったが、とてもいいやつだった。Dilbertというアメリカの新聞の4コママンガをみるたびに、Jを思い出す。たしか、チェスの達人だったか。
そして、小柄で濃い茶色の髪で小顔で、かなり分厚い眼鏡をかけた女性のS。舌っ足らずな喋り方をする、アメリカ人にしてはとてもシャイな感じだった。歯列矯正のブレイスをしていた。
そして、ブルネットで短くカールした髪型のAはちょっと神経質なやつだった。すごく頭がいいんだろうなあ、でもそれが本人にとって重荷になってるんじゃないかなというようなタイプ。ことあるごとに、幅広く深い知識を披露しようとするので、まわりは辟易としてたところもあった。根っから悪いやつということではなく、周りとの付き合い方がへたな感じだった。
不思議にメンバーとしては、ホストブラザーもいれてこの4人くらいの記憶しかない。悲しいかな我が記憶。写真でもあると途切れた脳の神経がつながったりするのであろうが。目をつぶって、ぐぅっとタイムトラベルをするみたいに当時の記憶をたどるが、それ以上でてこない。おそらくこの記憶に残る4人は、キャンプにいっしょに行ったからではないか。
MGMは、エリートの天才クラブというよりも、表現は悪いが、IQばっかり高い、奇人変人が集合したオタク部屋みたいな、不思議な集まりではあった。当時、僕は、クロスカントリーという長距離走の陸上と、コーラス部に所属していたので、このMGMはそれらと違ったなんとも不思議な集まりだなあと思いながら参加していた。
2.ロシアン・リバー
ある美しく晴れた秋の週末、MGMクラブのキャンプ旅があった。
生徒5人が参加、学校がアレンジした大学生かそれよりちょっと上くらいの男女2人がシャペロンとしてキャンプを率いると知らされる。
ロシアン・リバーという北カリフォルニアを流れる川の川下りとのことだが、まず車で数時間移動して、川の下流に着いて、シャペロン2人と合流する。
ボート貸場で7、8人乗れる大きなカヌーを借りる。テントや寝袋、食料などはいった荷物をそれに乗せて出発する。我々5人は、冷たい川に体を浸かって、カヌーを押すように言われる。北カルフォルニアの秋の川の水は、ひんやりと冷たい。
「川下りといったけど、今日の予定はひたすら川を上ります。カヌーを押していきます」と、笑顔でロブ(仮称。本名忘れた)が言う。
ロブは、小柄で薄い茶色の短髪で顎髭をはやした、大学生のような人物だった。今思うと、もしかしたら、資格をもったプロのカウンセラーだったのかもしれない。「今夜はひたすら上流を目指して、川辺でキャンプ設営、キャンプ・ファイヤーします。それで明日が待望の川下り」と優しそうな声で話す。
「そして、こちらがシャロン(仮称)。僕とシャロンがこのキャンプのリーダーなので、ちゃんと言うことを聞いてください」というような挨拶があった。
シャロンも、ゆっくりとした喋り方の、優しい人だった。カリフォルニアというところはアメリカの中でも喋り方が優しくフレンドリーなんだが、さらにそのお手本みたいな優しさだった。長いブロンドの髪を後ろで結んでいて、手編みのようなセーターを着ていた。
この2人はなんなんだ?普段、がさつな人たちに揉まれてなれていたので、その天使のような優しさにちょっと混乱した。2人には、教会の聖職者みたいな、癒やしのオーラが漂っていた。
1時間ほど、ひたすらカヌーを押した後、木陰で休憩する。
地べたに座って休んでいる僕らに、ロブが語りかける。
「僕も、高校時代は君たちがはいっているようなクラブに入っていた。その時行ったキャンプが楽しかったんだよね」
多弁なAが質問する。「ロブとシャロンはどこで知り合ったの?」
ロブは静かに答える。「1年くらい前かな、シアトルの埠頭で1人で釣りをしてたんだ。そしたら、シャロンが通りかかって、ハローって声かけてきたんだ」
シャロンが続ける。「何を釣っているの?って聞いたの」
ロブが笑う。「実は、まったくなにも釣れてなかった。何時間か釣りをしていて、釣れないからもうやめようと思っていた時。シャロンが声をかけてくれた。それで、2人は出会って、おしゃべりして、今日に至る」
多動で思ったことをすぐに口にだすAにしては、そこで、なかなかいいツッコミをいれた。「シャロンが釣れたってわけか」
我々は、素直に、ワハハと笑う。
再び我々は上流を目指す。幅が広かったロシアン・リバーはだんだん狭くなっていく。Aがわざと水をばしゃばしゃやって、JやSのひんしゅくを買う。ロブが、おいおい真面目に押そうよとたしなめる。
川の周りには、さまざまな針葉樹林が生えていて、ところどころ、レッドウッドという大きくそびえる赤茶けた幹の木がすっとたっている。森を通って吹く秋の風はちょっと冷たいがとても爽やかで、気持ちがいい。カヌーを押しながら前方をみると、太陽の光が川の水面に反射してきらきらと光っていて、きれいだった。
3.手製ポテトサラダとテント・サウナ
ひとつ訂正。下流でカヌーを借りてひたすら押して上流をめざしたと書いたが、たぶん、最初の方はオールを漕いで上流を目指していたように思う。記憶違い。このWebでみつけたタイトル写真のロシアン・リバーの川幅が広い辺りは、水深も深そうだし、オールで漕いで川上を目指したはず。だんだん川幅も狭くなって流れも急になったあたりから、じゃぶんと川に浸かってみんなでカヌーを押したんだと思う。
休憩をいれながら、数時間あるいは4、5時間かけて上流を目指した。たしか、交代で1人が先頭でカヌーについたロープを引張り、みんなでひたすら押した。
多動症?ということなのか、Aは止まることなく、ずっとなにか喋っていた。悪気はないんだろうが、関心・議論の矛先がいろいろ変わって、当然、外国人の僕にも及んでくる。
「Japというのは日本人への差別語だけど、一部では Nip という言葉も使われていたんだよね。それはNipponの略だよね。」とA。
それを聞いていたJとかSが、「おい、A。そういう話題は not nice 。他のこと話そうよ」と軌道修正してくれるが、Aは続ける。
「第二次大戦中に多くの日系アメリカ人がここカリフォルニアでも強制収容所に隔離された。理由は、敵国の日本とつながっていて密かに支援するんじゃないかという点と、逆に日本人だからといって暴力を受けたりすることから保護するためだったという説もある。どう思う、Ken?」
差別語にむっとしながら、こいつ殴ってやろうかと思いながらも、無視もできないので仕方なく応える。「当時はドイツだって敵国だったし、ドイツ系アメリカ人もたくさんいたはずだが収容はされなかった」
「日本は真珠湾攻撃をしたし、ここカルフォルニアまで気球爆弾とか、米国本土への攻撃を起こしていた点が違う」とAが知識を披露しながら反論する。
すると、それを遮るように、大きな明るい声でロブが叫ぶ。「みんな、あと10分くらいで今晩のテント設営の川辺だ!あと少し、やっと到着!」
その川に面した木が生えていない平地で、荷物をおろして、テントを設営する。別にキャンプ場ということではなくて、我々以外は誰もいなかった。テントをいくつか設置して、焚き火を起こす場所を決めて、そして、ちょっと離れたところをトイレと決める。
ロブがみなに言う。「みんな、燃えそうな乾いた木と、このくらいの(両手で抱えるくらい)石を一人1つ拾ってきてくれ」。焚き火のかまどみたいにするのかなと、川端から大きめの石をみつくろって持っていく。みなが持ってきたいくつかの大きい石を敷いて、さらにかまどのように石を組んで、それで火を起こした。
食事はなにを食べたか、すっかり忘れてしまった。40年以上前の記憶。たぶん、ソーセージ焼いてホットドックとか、ハンバーガーパテ焼いてハンバーガーとか、そんなアメリカンな食事。ひとつ、鮮明に覚えているのが、シャロンが作ったポテトサラダ。
焚き火の火でジャガイモを煮て、それをスマッシュして、セロリだったか玉ねぎだったかいれて、マヨネーズかけて、大量につくってくれた。「そうか、ポテトサラダって作れるものなんだ」と変に感心したのを覚えている。給食ででてきたり、家ででてきたり、どこかで誰かが作った冷たいものを食べるものだと思っていたものを、目の前で一からつくっている人がいる。40年たってもまだ覚えているということは、それで何か初めて学んだものがあったのかもしれない。そして、そのサラダは生暖かった。でもおいしかった。
食事が終わると、木の枝をナイフで削った先にマシュマロをつけて、みんなそれぞれ焼いて、とろりとなったところを食べた。そとはカリッとなかはトロトロ、おいしくないはずはない。もう暗くなった森の中は、近くで川のせせらぎが聞こえた。遠くでは、コヨーテなのか野犬なのか、犬の遠吠えのような声も聞こえた。
「では、このキャンプ最大のイベント、夜の川へのダイブをやります」とロブが宣言する。
「え、冷たい川にはいったら、心臓麻痺で死ぬよ」とホストブラザーのPが反論する。
「僕は祖先が北欧なんだが、その地域で伝わる、伝統の儀式でやるから大丈夫」、ロブはそういって、小さなテントを指差す。
そういえば、寝袋や荷物を運び込んだ大きめのテントの他に、木の枝を3本くらい組んだのにシートをかぶせた、粗末なインディアンのテントみたいなものをロブとシャロンが設営していて、なにに使うのかなと思っていたそれだった。
「さあ、準備をしておくから、みんな泳げるようにベージングスーツに着替えてきて」とシャロンが言う。
海水パンツにはきかえて、涼しくなってきたのでTシャツは来たままで、火の前に戻ると、かまど?だった石のいくつかはそこになかった。
「説明します。これは北欧で「サウナ」というもの」
「知ってる知ってる。熱い蒸気で体をあたためる健康法」とAが言う。
「そのとおり。熱い石があのテントの中にあるので、やけどしないように気をつけながら、バケツにはいった水をかける、そしてわっとでてくるその蒸気で温まる」「じゅうぶん温まったら、テントをでて、川へとダイブする」
焚き火に照らされた皆の顔が、不安とワクワク感で、きらきらとする
「大事なのは、テントからでて川へと行く間の儀式。北欧古代の儀式で、みなで一列に並んで、聖なる枝につけた聖水をダイブする人に、ぴしゃぴしゃかける」ロブがそう言うと、皆がワハっと笑う。
一番手のJは、ヒッヒャーとか甲高い声で奇声をあげながらテントからでてくる。色素のすくない白人の肌が真っ赤になっている。冷水のついた小枝を、彼の背中とかにパシャパシャやると、やめてくれーとか笑いながら、川へと走っていって、じゃぶんと飛び込む。水深は浅いのですぐに立つが、また、ヒヤー!とか奇声をあげて、楽しそうであった。
僕もピシャピシャたたかれながら、川へダイブ。今思うと、サウナで「整った」人生最初の体験だった。川の冷水が全身に強烈な衝撃でしみてきて、圧倒されると同時に、なんともいえない快感。ある意味、大自然での、とても神秘的な体験だった。体が感じた強烈な感覚。言葉で論理的に説明されるよりも、何倍も強烈な体験。
女性のSにはお手柔らかにピシャピシャ。Aの番になると、皆、日頃から、また昼間からの不満?もあって、冷水をたっぷりかけて、枝でわきをくすぐったりしてやった。Aは、やめてくれーとか叫びながらも、楽しそうだった。
4.川下り・帰還
その夜は熟睡した。翌朝聞くと、Jも、日頃はよく寝れないので、ときどき睡眠導入薬を飲むそうだが、昨晩は熟睡できたという。
朝食を済ませて、テント設営を片付けてカヌーにつんで、いざ、ひたすら下流へ。川の流れがはやいところとか、段になっているところもあり、なかなかスリリングだった。
ある、段になったような流れの早いところで、Aがカヌーから落ちる。それなりに深いところだったが、ライフジャケットをつけたAはすぐに浮かんでくる。Aも皆も、大笑い。おいおい、喋ってばかりいると、そうなるんだぞと。
そして下流の出発地点に無事戻って、カヌーを返して待つと、家族が車で迎えにきてくれた。
あのキャンプ旅行はなんだったんだろう、その後の人生で、時々なつかしく思い出しては、考えた。
普段、気難しい顔したり、頭の良さに偉そうにしたり、あるいは人類が背負った原罪みたいな重たいものを抱えて憂鬱な顔をしている天才児たち。それが、大自然のなかでひたすら体を動かして、大きな笑顔をみせた体験。それを支えるシャペロンの2人は、天使のようにほほえみ、けっして叱ることなく、すべてを受け入れてくれた。そして、自分たちの出会いの話とか、とても人生の教訓のようないい話を静かに語ってくれた。手作りのポテトサラダはおいしく、手製のサウナと川での「整い」は、体のなかの思春期の苦悩をリセットしてくれるかのように、強烈に気持ちよかった。
あるとき、ふと思った。もしかしたら、あれは巧妙に計算されてつくられた、「発達障害の天才児用のセラピー」だったのではないか?
奇人変人的な行為もすべて無条件にやさしく受け入れながら、大自然のなかで強烈な体感をともなう楽しい想い出を持ってもらう。アメリカの精神分析の学問の発達・応用はすごい。ちょっと関係ないが、クワンティコのFBI本部は70年代に既に犯罪者のプロファイリングをはじめていた(この間Netflixでマインド・ハンターというドラマで知った)。80年代に州予算で、発達障害天才児のセラピーを実施しててもおかしくはない。
もう記憶が不鮮明になってしまったが、たしか、Aは、親の離婚もあり、精神的に不安定で、自殺未遂の過去もあったと聞いた。人並みはずれた記憶力があったり数学が得意だったりの天才児たちは、その能力がゆえにマイノリティであり、こころのバランスの問題を抱えがちなのだろう。
数年前だったか、卒業後に疎遠になっていた学生時代のジャズサークルでサックスを吹いていた同級生の顔写真をあるウェブサイトで偶然見かけた。精神科医になって発達障害の子供をずっとみてきて、何冊か本を書いているという。学生の頃から、にこにこ笑顔がいいやつで、写真も笑顔だった。この笑顔なら子供も心を開くのでは、というような笑顔。キンドルで買えたのでダウンロードして読む。たしか、「発達障害は、社会生活に支障があるなら病気として診断、支障がなければそれは「個性」にすぎない」というようなことを書いていて、自分の特殊なこだわりと社会生活との折り合いをつけていい人生をおくるのをみなで支えましょうというようなことを書いていた。それを読んで、このキャンプのこと、2人のシャペロンのことを思い出した。
天才くんたちはその後どうしたんだろう。辛いこともあっただろうが、このキャンプを思い出して、それを支えに生きてるということだと、いいが。
と、書いてみて、ふと、あることに気がついた。映画ファイト・クラブで、主人公のエドワード・ノートンが暴力的なブラット・ピットが実は自分自身のことであったと気づくような衝撃の結末(おおげさな比喩。それに映画みてない人にはネタバレで失礼)
気づき:「自分こそ、この短い旅の想い出に、これまで何度も勇気づけられ、救われ、支えられている」
生きている意味に疑問を持ったり、抑えがたいある感情に突き動かされそうになったり、わかってもらえないというような絶望があったり。そんなときに、あの大自然の体験をふと思い出す。そして、ロブの、釣りしてたらシャロンと出会えたというような話、手作りのポテトサラダの味、人生の指針のような逸話、そんなことが思い出されて、もしかしたら自分が今まだ生きらえているのは、あの記憶のおかげなのかもしれない。
おそらく、こんな昔ばなしの文章を記憶を掘り起こして書くことで、自分のバランスをとろうとしている今現在も、僕がどこか心の奥深くに抱えてしまっているある種の発達の障害をバランスさせようとしているのかもしれない。
ロシアン・リバーの川下りの想い出のおかげで、今でも、生きながらえている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?