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博愛主義者のパラドックス(その2 解決策)

↑これの続きです。
今回は『博愛主義者のパラドックス』の解決策とそれに関する反論を書いていきます。

このパラドックスの解決策としては以下の三つです。

1、『自然に対する博愛主義』
2、『愛は個々人を知覚する必要はない』
3、『「博愛主義」の意味が状況によって決まる』

以下、それぞれの解説と反論。


1、『自然に対する博愛主義』


自然に対する博愛主義を考える時、その自然全てを知り尽くした上で愛する必要はない。そんな事が出来るとすれば神だけであり、人間には出来ない(その代わり、人間には学びや期待がある)。

例えば自然に対する博愛主義を持つAさんに、トーゴにある《トーゴ湖》の写真を見せる。

https://tabippo.net/togo/より


これを観たAさんが、

「初めて観た自然だけど綺麗!」

と言った時

「Aさんが愛している自然は私が言わなければ知らなかった自然と同じ。だから何も愛していない」

と言ったところでAさんは困惑するだろう

「…って事は、私は全ての自然を知る必要があるの?」

これはそのまま人間に対する博愛主義にも当てはまるのではないか。

【反論】「自然と人間では異なる」



 例えば自然を広く愛する事に対する罰則は特にないが、人間を広く愛するとなると主に恋愛面で見たときに不倫や浮気と言った問題が浮上する。

2、『愛は個々人を知覚する必要はない』

このような自然に対する博愛主義を考える事によって、愛は個々人を知覚する必要はないということが言える(例 私は日本人を愛しています)。

【反論】『「人々を平等に愛する博愛主義者はその実、誰一人として愛していない」という主張の反論にはなっていない…という点』

例『トロッコ問題(オリジナル)』

「暴走したトロッコがAかBに突っ込まざるを得ない時、それを観ている博愛主義者はどの選択を選ぶのか。

・Aの選択肢
 博愛主義者の身内(親族)や知人n人がいる線路に
 突っ込ませて止める。
・Bの選択肢
 博愛主義者とは全く関係のない他人n+1人がい
 る線路に突っ込ませて止める。

Aにいる人とBにいる人の年代や体格がそれぞれ等しい、トロッコを止めるためにはAとBの選択肢以外はないと仮定して、初期の選択肢がAにいる人目がけて突っ込むのなら、その博愛主義者はどの選択肢を選ぶのか」

ここでBを選べば平等に愛するという構図は崩れてしまう(《愛が平等であればより人数の多いBを助けようとする》という功利主義を前提とする)。

3、『「博愛主義」の意味が状況によって決まる』

 これが最もらしい解決策。言葉というのは状況によって意味が決まる、誰かと話すときに必ず辞書を持ち歩く必要はないしそんな事していないだろう。意味が伝われば良いのだから。
 これによって、2(『愛は個々人を知覚する必要はない』)に対する反論は無意味になる。「貴方は誰を愛していますか?」聞かれた時の「私は日本人を愛している」という返答は有意味だと言えるから。

【反論】「『哲学とは本質を探究する学問である』に反している」

 "時と場合による"は哲学のそれとは反している。反論はこんなところだろう。

 だが、本質を探究しようとするあまり現実世界を捻じ曲げてしまうのは適切とは言い難いと私は回答する(「ファン全員、愛しています!」というアイドルに歓声を上げるファンの人達…現実世界における自然な反応)

うん、私は哲学科に所属していた訳ではないし哲学沼には(多分)落ちていない…かな。


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あとがき 『"出会い"の観点から見た博愛主義者』

今回のパラドックスに関する一連の議論は「広く平等に愛する事」を前提にあれこれと思案した。

 結局のところ「状況によって意味が変わる」という結論に落ち着いたのだが、ここで見方を変えて博愛主義者の幸福について少しばかり紹介して結びとする。

以前の私は、博愛主義者に対して否定的だった。「誰も愛せないとはなんて不幸なんだろう、利点なんてないのに」と。それ故に博愛主義者なんていないと考えた訳だ。

だがそれは少しばかり視野が狭い考え方だと感じた。"出会い"の観点を考慮していなかったからだ。

1960から70年代に詩人や劇作家として活躍した寺山修司は自身の『幸福論』にてこう述べている

こうした「交際を広げたい」という博愛思想は、同時に身近にいる人たちも他人とみなす、という「疎外感」にうらうちされているとも言える。出会いが新鮮であるためには、そこに馴れあいなどがあってはいけないからである。
(中略)
出会に期待する心とは、いわば幸福をさがす心のことなのだ。

寺山修司『幸福論』92頁(角川文庫)


出会いに対する期待…
勿論私にもその気持ちはあるのだが、私の場合人間付き合いは狭く深くなので、手当たり次第交際を広げたいとは思えない。

だが、寺山修司『幸福論』出会いの一節目を読んで、なるほど幸福になるために出会いを求めるという視点があるんだなと思った。

やはり、自分の思考だけに閉じ篭もるのは良くない。

このような博愛主義者とは是非話してみたいとは思うが、馴れ合いなどとは無縁だろうから深く話す機会などないのだろう。悲しい😭

それよりも、出会いも酒も賭け事も求めず、変なパラドックスを思案するまだ二十代前半の筆者の今後が心配である…大丈夫かなぁ。

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