博愛主義者のパラドックス (その1)
“博愛主義”という言葉がある。『全ての人を平等に愛するという主義』という意味である が、このような人に以下の例を提示する。
『筆者である私から「今日この国のX県に住んでいるQさんが亡くなった」と聞かされたとする。読者はこのQさんの血縁者でもないし、一度も会ったことも顔や名前を見聞きした事もない。さらに、筆者ですらつい先程その事実を聞かされただけでQさんとは赤の他人であるとして、どうして博愛主義者はQさんの死を悲しむ事など出来るのだろうか』
私には博愛主義者が悲しむだろうと思うのだが、中には「X県やQさんなんて有りもしない例を出されても…」と思う人がいるかもしれない。そんな人のために、より具体的な例を出そう。
それはこのような例だ。今から私がとある役場に行って今日亡くなった人の名簿を受け取り、故人がどのような経歴でどのような人であったかを関係者から聞く…それこそ私は記者のように淡々と。取材が終わった後、その内容を博愛主義者に伝える。といった内容ではどうか。これを翌日も、翌々日も、十日、一ヶ月、一年後も毎日続ける…。勿論、これらの故人は博愛主義者や筆者の血縁者でも以前見聞きした人物でもない。さて、博愛主義者が“悲しみ”という感情を抱かない日はあるのだろうか。
あるいは…このような例も考えられる。先の例はそのままに、亡くなった人を産まれた人に置き換える。つまり「今日は○○という父親と××という母親から▲▲という赤ちゃんが産まれました。体重は3,000キログラム。母子共に健康です」と言うように。さて、博愛主義者が生命の誕生に関する“喜び”という感情を抱かない日はあるのだろうか。
私はこう思う…「博愛主義者とはその実、何を愛しているのだろう」と。理由は先の例のような人と身近な人(例えば家族や知人)の生や死を同列にしか感じられないから(全ての人を平等に愛するのなら、生や死の悲しみも平等である)。先の例のような人は、私から聴いて初めてその存在を知覚したのだから、博愛主義者の身近な人は“私から聴いて初めてその存在を知覚した人”と同列…言い換えると、「私が言わなければ知らなかった人物」とイコールであると言えよう。
「私が言わなければ知らなかった人物」と身近な人がイコールなら…博愛主義者はそんな身近な人に対して愛するどころか、無関心ではないだろうか(言うなれば、いてもいなくても構わない人)。この世界の中で大切な人を見つけ、その人を「私が言わなければ知らなかった人物」以上に愛する事ができない。それが出来ないのは、博愛主義者自身の『誰々を愛したい!』といった欲求…その欲求を知覚しようとする勇気が足りないからではないか。
結論。博愛主義者は全ての人を平等に愛すると言いながら、その実、誰一人として愛してなどいない。
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とある作品の批評を執筆している際に何となく考えてみた博愛主義者に関するパラドックス。私自身が考える解決策はその2にて。
※以下参考にした記事です。大変興味深かったので引用させて頂きます。
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