博愛主義者のパラドックス

私が好きな漫画に、よしながふみさんの『愛すべき娘たち 』という作品があります。よしながふみさんの漫画はドラマで有名な『大奥』などの作品も大好きなんですが、私にとって『愛すべき娘たち』はそれ以上に特別な作品です。この漫画は全5編のオムニバス構成となっていて、それぞれの話にほぼ同じ登場人物が出てくるんですが、各話ごとにフォーカスされる人物が異なっています。

その中でも私が大好きな回が第3話です。この回では「莢子」という30歳前後の女性がフォーカスされています。莢子は、優しく意思の強い祖父のことを尊敬していました。莢子は祖父から「全ての人に分け隔てなく接しなさい。どんな人にも良くしてあげなさい。」と教えられます。彼女はその祖父の教えを守り、人に分け隔てなく、誰にでも優しく接してきました。

莢子の周りの友人はちらほら結婚や同棲などし始めていますが、彼女はまだ結婚していませんでした。そんな中、結婚を考えていた莢子は、美しい心をもった、とても気の合う男性と出会います。しかし、気が合うにもかかわらずどうしてもその人を好きになることができません。彼が魅力的な存在に思えれば思えるほど、彼女は苦悩に苛まれてしまいます。彼女にとって恋をすることは人を分け隔てることであるために、恋をすることができないのです。度重なる見合いを重ねた末にそのことに気づいた莢子は、結婚ではなく修道院に入りシスターとなる道を選びます。ここで第3話は終わりです。

私はこの話が大好きでした。世界と自身との間に透明な薄い膜のようなものを感じとっている莢子の感情になんとなく共感していたのかもしれません。

そして、最近ボーヴォワールの『人間について』という本を読んでいたら、このような文章に出会いました。

もしもあらゆる人間がわたくしの兄弟なら、もはや特定のどんな人間もわたくしの兄弟ではありません。わたくしを世界に結びつける絆を無限に増加することは、この特定の瞬間に、地球上のこの特定の一隅に、わたくしを結ぶ絆を否認する方法であります。もはや、わたくしには、祖国も、友人も、両親もないことになります。あらゆる形態は消えてしまいます。姿を隠してしまいます。その現存が、絶対的な不在と区別つかないような普遍的な背景の中にです。

なんとも示唆的な文章です。私はこの文章を読んだ時、『愛すべき娘たち』の莢子のことが頭に浮かびました。莢子は、人に分け隔てなく接することで、あらゆる人間と「兄弟」になりました。彼女は、相手がどんな人であれ自身の家族や友人と同じように愛を注ぎます。しかし、その結果、彼女は身近な存在と「恋人」という絆を結ぶことすらできなくなってしまったのです。「博愛主義者のパラドックス」とでも呼べばいいでしょうか。ざっくりと言ってしまえば、友達や恋人を作るという行為自体が「選別」であるために、全ての人に平等に優しく接するよう心がけている者にはその「選別」すら難しく、友達や恋人を作ることができなくなってしまう、ということです。世界全体を愛することはできても、特定の客体との間に絆を結ぶことができなくなってしまうのです。あえてパラドックスと呼んでいるのは、その結果が本来意図するところのものではないからです。

ボーヴォワールは、『人間について』において、ヴォルテールの小説『カンディッド』(1759年)を頻繁に取り上げています。その話の中で主人公のカンディッドは、世界中への波乱の多い旅を終えた後、晩年には隠遁して慎ましい農耕生活を送ります。カンディッドは、世界のあらゆるモノへ「計画(投企)」と「目的」を設定するのではなく、ただ目の前の庭を耕すことに最上の意味を見出したのです。カンディッド曰く、「我らが庭を耕すべし」と。

先日リリースされたスペインのシンガーソングライター、シルビア・ペレス・クルスの新作『Toda la Vida, un día』(2023)は、「人生の円環」をテーマに据えたコンセプト・アルバムになっており、20歳〜40歳にかけてを表現したパート・Mov.2は「無限(La Inmensidad)」と、そして40歳〜60歳にかけてを表現したパート・Mov.3は「私の庭(Mi Jardín)」と名付けられていました。

成人期には無限に触れ自身の尺度を知り、壮年期には無限に触れることなく、自身の庭を耕すように身近な客体とだけ絆を結び小さく生きていく。人間とは、そのようにして成熟を迎え入れていく存在なのかもしれません。ならば無限に触れて生きる博愛主義者という存在は、成熟の過程にある存在として捉えることも可能です。

博愛主義者にとって、人から絆を結ぶよう求められることは、単なる求愛を意味するのではなく、聖者として生きていくのか、それとも庭を耕すように生きていくのか、その二択を突きつけられることと同義なのです。そして莢子は、苦悩の末、聖者として、絆を結ぶことなく生きていく道を選んだ。自身の信仰を友として生きていく道を選んだ彼女は正しかったのかどうか、それは私にはまったく検討もつきません。


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