自分を愛する。

宇多田ヒカルさんの「自分を愛するってどうしたらいいの?」というインタビューがvogueにUPされていました。

とても興味深い内容で大変勉強になりました。言語化することが職業でもあるからか細かい表現や言い回しが本当にお上手だと感じました。

今回は私のメモもかねたLogです。以下は私の抜粋ですが、全文読んだ方が脈絡がつながるので、少し長いかもしれませんが全文読むことをお勧めします。

「ル・ポールのドラァグ・レース」(Netflix)の決め台詞が「自分のことさえ愛せなかったら、一体どうやって他人を愛せるの?」なんです。よく聞くフレーズではあるけれど、愛される感覚や、愛する感覚自体がはっきりわからない状態だと、どこから始めればいいかわからないじゃないですか。自分を愛するってどうしたらいいの? って。

子どもができても、愛というものがやっぱりわからなかったんですよ。私の中で「痛み」とごっちゃになっちゃってて。みんな愛って「気持ち」みたいなもので語るけれど、私が産後に感じたのはオキシトシンの作用と「本能的な義務感」で、愛ってなんなのかよくわからなかった。『BADモード』を作っている時期にもそれを考えていて、「そうか、私は対象に愛されている感覚を与えたいんだ」って気づいたんです。私が子どもに「愛されている」と感じてほしいからしていることを、自分にもしてあげればいいって気づいて。愛する相手にこうなってほしいという気持ちを、自分に適用すればいいという大きな気づきがありました。

9年近くやっている精神分析の影響もありますね。もともと自分を分析して、そのときの自分に必要だった自分の真実みたいなものが歌詞になることが多かったのが、精神分析を長くやることによって、セルフセラピーの意味合いが顕著に出てくるようになったんだと思います。
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周りの親しい友人も何人かやっていて、聞いてみたらいろいろな学派があるんです。ラカン系とかフロイト系とかユング系とか。私は精神分析医に背を向けて、窓の外を見ながら話すんです。通い始めの頃は仕事をしていない時期だったし、ちゃんとやりたかったので週5で1回20~30分。
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ほぼ30分。良きところで精神分析医が立ち上がって「じゃあ」みたいな感じで終わる。私が何か気づきに至った、そこ大事そう……ってところに差し掛かったらおしまい。産後は何カ月か休んで、今は週3で通っています。

無意識にあることが自分の言動や選択に多大な影響を及ぼしていて、なんでこんなことを繰り返しちゃうんだろう、なんでこうしちゃうんだろうっていうのをひもといていくのが趣旨です。自覚できると怖くなくなるし、悪影響を及ぼす力が減るから。過去に囚われないで生きるために、過去を理解しようということです。無意識や過去をいろいろ探検しに行かないといけなくて、自分の中のジャングルに行くみたいな感じで、そのガイドさんがいる感覚ですね。いろんなジャングルに行ったことがあるプロのガイドさんが折々、「ここに何かあるよ」って教えてくれたり、「ちょっとそっちは危ないんじゃない?」とチラッとアドバイスしてくれたり。基本的に私が好きなことを話すんですけど、時々質問を挟んでくれたり、たまにコメントがある。

子ども時代が一番強烈だったんだろうなと思います。寂しさや辛さ、耐えられない気持ちや悲しみ、そういうものが濃くダイレクトにありましたね。そこから自分を守るために、環境に応じて成長しちゃうじゃないですか。適合するというか。そうやって身につけた行動パターンや思考パターンに、もう大丈夫だよ、もういらないんだよ、そのときは必要だったけれど、今はそれが人との関係を築いたり、自分が自分との良好な関係を保ったりするのに邪魔してるよね、っていうのを学んできた人生というか。特に精神分析を始めてからの9年で。今でも時々そういう気持ちを強烈に感じると、こんなに根底にあるんだとショックを受けたり、誰とこれを共有したらいいんだろうとか、共有できる人がいるのだろうかと思うときもあるけれど、それこそ自分に言い聞かせてきたことでもあるんだと思います。そうやって景色が豊かになっていく、自分が豊かになっていくと。

親や周りにいる人が子どもにしてあげられる一番大事なことって、ある程度の大人になるまでは根拠がなくていいから、安心感とか自己肯定感を持たせることだと思うんです。自己肯定感は、なんでも「いいよいいよ、最高」って言うことじゃなくて、子どもが何かの理由で悲しいと思っていたら、大人からしたらたいした理由じゃなくても、「悲しいよね」ってその都度認めてあげること。そういうところから自己肯定感って芽生えてくると思うんですね。自分がこの気持ちであることはオッケーなんだって。その感情を他の人に認めてほしいとき、誰もいなかったりすると、そう感じている自分がおかしいんだ、悲しいって思っている私がいけないんだ、私が感じなければいいんだっていうほうにいっちゃうと思うんですよ。私はそこを通ってきているし、最近の10年は、自分の中でやっちゃってた感情の新体操みたいなのをしないでもいいんだ、悲しい気持ちも弱さも隠さなくていいんだ、と思うようになりました。

母がとても不安定で危うい人だったので、私には初めから「人との関係」の前提に「喪失の予見」がありました。でも他者が存在してる以上、他者と関係を持たない選択肢なんてないと思います。拒絶してる状態も一つの関係だし。仮に誰とも関わらないで生きる方法があったとしても、なんのためにそんな生き方を? そういう自分を想像しても、存在理由がよくわからない。時間もいっぱいあるし、ひたすら本が読める、勉強しよう、と思ったって、それを共有する人がいなければ、そこで全て終わっちゃう。それもつまらないって思うと、人と共存することは、自分が生きることと同義だと思うんです。でも、というか、だからこそ、私は人と共存することとずっと葛藤してきたし、幼少期からの一番のテーマです。他の人間は危険な存在でもあるし、でもなしでは生きられないし、どう共存できるんだろうって、ずっと考えて歌にもしてきて。今はなんか「ただそういうことか」って受け入れられるようになってきたというか。それは母親と息子のおかげかなと思います。

何かを知ることって、知れば知るほど、自分がいかに知らないかを知ることですよね。ただ、自分への信頼みたいなものがだんだん養われていっている気がします。それが世界の信頼とか、他者への信頼に繋がっていくのを感じています。


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