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【殴り書き】社会課題の発信について

気候危機、環境問題とかは想像しづらいし、自分ごとにできないのは当たり前だと思う。
だって本当に気候がやばいなんて、今目の前で見える形で深刻に起こってないから(起こってはいるけどまだ人間が生きれるレベルって意味)わからないじゃない?私は気候のやばさを自分ごとにできるタイプだから環境のことを深刻に捉えられるけど、たぶんこんな私は社会全体の中ではマイノリティ。

そこで、「環境問題のやばさ」をどう伝えていくのか。

今目の前の現状とその裏にある見えない問題の間のギャップを埋められるような想像力をいかにして作り出せるかが環境問題ないしは社会課題ことを伝えるときに重要なんじゃないか?
問題をただただ発信したってそりゃあ響かない。いかに自分ごとに捉えてもらえられるか。自分ごとに自ら考えられるようになってはじめて伝わるのでは?

あと、相手を強制させるような言い方一番嫌い。
「環境問題のこと考えてない人おかしい」「ヴィーガンじゃないなんてやばい」「声を出さないのはなんで」とかいろいろ不満は出ると思うけど、それってどうなの?相手に自分のエゴを強制的に訴えて批判するのはどうなの?攻撃的になることは問題の解決になるの?その人たちがなんでそう思わないのか聞いて、その人たちが自分ごとに捉えられるように伝えるべきじゃないの?押し付けだけは嫌だ。
「こう言う考え方もあるよ」とか「私はこういう意見を持っている」っていうのはいいとは思うんだけど、、、
だけど、これも何が違うんだ?押し付けと教えることの違いはなんだ?意見を出すことは結局押し付けなのか?
伝えると伝わるは違う。でも、伝わる伝え方って難しい。

ああ、もやもやする。頭の中ぐるぐる。

私は何かにのめり込んだ後、いつもその行為をした自分を客観的にみてしまう気がする。だから今環境問題にのめり込む自分に対してちょっと警戒して客観視してる。環境問題のことを訴えている人ってまじで自分のエゴだと私も思うし、私もその一人だと思う。私は最近環境のことを考えてる自分をちょっと客観視してて、発信していることってただの自己満じゃないか?とか思ったりする。ほら、ボランティアとかで良いことしたら気持ちよくなるじゃない?そういう風に、発信することで、「世界救ってるぞ」みたいな正義感が気持ちよくて発信してる節が絶対自分の中にあると思う。だからそんな自分に周り見えてる?って言いたい。でも、環境問題のせいでこれ以上暑くなるのも、美味しいもの食べられないのも、旅行できないのもガチで無理って感じだから環境問題のこと考えるし、発信してる。

なんかなあ、なんだろ、環境のことを少しでも考えてない自分がダメだと思ってしまうから、そういう自分に何か言い訳をしたくてこういう気持ちが溢れているのかもしれない。

とにかく言いたいことはなんなのか。
わたしはもっと社会課題について多くの人が考えられるようになるにはどうしたらいいのか、考えたいのだよ。社会全体の利益を考えて動ける人を増やしていくには?なぜこんなことを考えるのか。それは、それもまた自分のエゴなのではないか?増やすと何がいいのか?そういう人が増えたから結局どうなの?
社会全体のことを考えられる人が増えれば、社会的弱者が減るのではないか?
次、社会的弱者が減ると何がいいの?悲しい思いをする人がいなくなる?もっと世の中にハッピーが増える?でも、社会的弱者が出ないなんてことはあり得ない。必ず格差は生まれるのではないか?格差の是正はなんでいいの?当たり前のことだけど、なんでなの?
人間は何を求めているのか?私たちはなんのために生きているのか?何のためにお金を生み出しているのか?生きるため?でも生きるためにはお金は本当に必要?別にお金なくても生きる方法はあるよね…?

ああ、またこうやってぐるぐるぐる。

この続きはまた後日考える。

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