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本が読めなかったのは、罪悪感のせい

私は、もう、本が読める。

(しばらくの間、なぜ本が読めなかったのか、その原因や変化のきっかけについて書くいています)


忙しくなると、とたんに本が読めなくなる。
締め切りに追われ、
深い思考も、自分のアウトプットも、できなくなる。

今年上半期は、そんな期間が多くて、はがゆい思いをしていた。

時間管理がダメ?
隙間時間を無駄遣いしている?
仕事を受けすぎている?
自分がポンコツだから…?

でも、いまなら、もう、本が読める気がしている。
それは、なぜか?

私の中で、パラダイムシフトがおこったから。
それは、近藤康太郎さんの本を読んだから。

『ワークイズライフ 宇宙一チャラい仕事術』

この本には、こう書かれていた。

アウトプットばかりしてインプットしないと、枯れる。ライターとしてだめになる。

P73

そう、まさに少し前の自分は、枯れていた。
やろうと思ったスタエフ、たまに更新してたnote、
一番危機感を覚えたのが、自分のXすら毎日更新が止まってしまっていたのだ。
あぁ、枯れるってこういうことか。

また、先日の読書会での学び

同じく近藤康太郎さん著『三行で撃つ』の
「読むと書くがセット」という話。

これらのことから、
「読まねばならぬ。」
「ライターなら書くのと同じ量読まねばならぬのだ」と知ったからだった。

今までは、読書は趣味で、息抜きや自分のアウトプットのネタ的な感覚だった。
読みたい、読みたいと言いながら、後回しにしていた。
楽しむよりも、仕事…。
その方が不安が落ち着く気がしていた。

どうやら日本人的な、マインドが染み付いていたのか。
楽しもうと言いながら、無意識のうちに苦役と感じるものに安住しようとしていたのかもしれない。

原罪なのか?どこからくる罪悪感なのか?
何かに許されようとしていたのか。

でも、そもそもが違う。
読書は勉強。
自分に強いるもの。
ライターという仕事を磨くもの。
読書をしないライターはサボっている。

そう、読書ができなかったのには、2つの勘違いがあって、
ひとつは、読書というものに対する捉え方を間違えていたこと
ふたつめは、罪悪感のせいだったと気づいた。

読書をお気楽なもの、ご褒美的なものと捉えていたことが間違いであり、
加えて
時間がないのでも、迷いのせいでもなくて、罪悪感が目を曇らせていたのだった。

「仕事(書く)」という免罪符に逃げていた。
「仕事しているからいいでしょ」と。
これでは、「仕事があるから…」と家事育児を100%私に丸投げしていたパートナーと一緒ではないか。

だから読書していても「こんなことしていていいのかな?」などという内なる声が湧いてきて、集中できず本を閉じ、パソコンを開いてしまったのかも。

でも、今後は違う。「こんなことしていて…」ではなく、
「私は必要不可欠なことをしているのだ」と、思えるようになった。

大手を振って読書ができるようになった。

私には近藤先生(の本)がついている。(勝手に)

今後も、張り切って勉強しよう。


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