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誰しも自分本位で生きたほうがいい


自分本位だなんて批判して。そう言う自分は何視点だよ?





先日、会社の先輩の結婚式に招いていただき、出席した。その先輩は社内外でも話題になるほど容姿が整っており、芸能人やモデルと言われても遜色がない。そのうえ結婚式なのだから、わたしは先輩の晴れ姿がいかに素晴らしかったか、誰かに話したくなった。



式が終わり、私はパートナーと落ち合った。パートナー(以下:A)は基本的に無口で落ち着いた性格をしており、日頃の会話は9:1ほど私の発言で占めていた。そのときも私のおしゃべりは止まらず、いよいよ先輩の話に突入した。

「先輩、本当に顔が整ってて」

「この姿とても素敵じゃない?」

私はボルテージが上がると余計語彙力がなくなるため、Aはこうやって何度も似たような感想を聞かされるのが常だった。

やがてAは静かに口を開いた。

「それを私に話して、どうするの?」




私は面食らった。Aは口調こそ落ち着いていて普段と変わりなかったが、私がべらべらとつまらない話をしても、そんな感想が返ってくることはなかった。

「まるで私のこと、素敵じゃないって言っているみたいだ。誰かをほめて、それを私に聞かせて、どう感じるか考えなかった?」



私はますます混乱してきた。どうやら話のつじつまをあわせていくと、私はテレビに映る芸能人をかっこいいと言うような「架空の美形」について語ったつもりが、Aには「‘‘自分と比較して‘‘先輩は素敵だと語っている」ように聞こえていたようだ。(芸能人は実在するが、住む世界の違う人という例えです)

そう誤解を受けたのなら、と私は謝った。気持ちが先行するあまり、そう受け取られるような発言をしていたのかもしれない。しかし、私が疑問に感じるのはここからだった。

「自分が同じようなこと言われたら傷つくでしょう?」




私はパートナー関係にある人に対しては誠実でありたいと思っている。人間関係を円滑に回すために、自分の意見や主張を後回しにしてしまう臆病な性格なので、せめてたった一人のパートナーに対してだけは自分のことを伝えたいと思う。たとえそれが違う意見であったとしてもだ。

「私は傷つかない」

真正面から言うとAは少し笑った。「そんな人はいるはずがない」と続けた。いやいるだろう、目の前に。そろそろ眼鏡なおしたほうがいいぞ。



そんな平行線のやりとりが続き、途中から、私はどうして傷つかない人間なのかがわかってきた。

私は父から溺愛されて育ち、家庭内では毎日「可愛い!」と言われて育った。成長し、やがて自分の容姿に向き合う年齢になっても悲観的にならずに済んだのは、全力で褒めちぎっていた父のおかげである。

あの子は私より可愛くて素敵だ。けど、最悪世界で一人だけは私のことを世界で一番かわいいと思っている。それでいいじゃん。

盲目溺愛親父は私にオンリーワンの概念を教えてくれた。



私は世の中の優劣や競争を知っているが、自分が自分をどう認識するかは別問題であると思っている。仮にAがすれ違った誰かを「あんなに素敵な人見たことない」とほめても、「それはそれとして私のことを選んでるじゃない?もの好きさんね」なんて茶化してそうだ。

Aが誰をどう思い、仮に私を順位づけしたしても、この関係性に変化がなければ、私には特別枠の何かがあるんだと思える。(本当は、この意識をパートナーがいなくても持ち合わせているべきだと思う。)

私はこの考え方が好きだ。こういうのを「自信」と呼ぶのではないかと思う。



そんな「自分の認識」に基づくと、Aの考えは自信のなさから来るものではないかと考えられる。突き詰めるとAの被害者意識であり、認識のゆがみともいえる。しかしここで思いとどまった。疑問に思うあの言葉である。

「自分が同じようなこと言われたら傷つくでしょう?」


思いやりに溢れた言葉のように見えるがどうだろうか?逆に言えば「自分が傷つかなければそれを相手に言ってもいいでしょ?」だ。


こんな暴力的な思考がまかり通るなら、この茨城の治安はとっくに世紀末になってるだろう。(茨城在住です)

私「明け方にバイクで家沿いの道路爆走されたら、うるさいでしょう?」

兄「ゆうじくん遊びに来たんだな~ってわかる」

このように家族であっても会話が成立しない。私はバイクの良さは分からないし、兄はバイクの良さが理解できない私のことが分からない。

論点すら合わないのに「これが当たり前よ、考えればわかるでしょ?」なんて話のステップを飛ばすどころか、話の架け橋を自ら壊しているようなものだ。



Aは自分に自信がなく、根底の負の面から私を咎めたにすぎない。そう解釈してしまえばこの話は終わりだ。Aはなかなか感情の整理に時間を要したが、私との関係を解消したくないと語った。

私が「自分は傷つかないから、相手も乗り越えられる」という解釈でこのまま突っ走ってしまうのは、Aの被害者意識を掻き立てる加害者意識になるのではないか。

自分がされたら嫌だからやらない、という考えは小さいころから教わりがちだが、大人になってはじめて逆説的に怖い考えだと実感できた。


Aとの今後の関係はまだ未定だが、見落としがちなことに気づけた今回の体験は、一生の宝物になった。

自分本位な考えは治そうとして改められるものではないが、「私は自分本位である、だから私の考えが通じないことだらけだ」という考えを頭の隅におくことで随分生きやすくなる。


みんなはどうだかわからないけど、私は個々人が自分本位でわがままに生きてると思う。自分の思考が世の中の平均的なパターンで、常識を踏み外していないと無意識的に感じている。


それは時に今回のような諍いにつながるが、「自分は間違っていない」という前提こそ個性を育み、人をオンリーワンたらしめる認識だと思う。

だから無理に自分を捻じ曲げて変える必要はない。ぶつかったときは「自分本位である相手自身」のことを考えればいいのである。自分の常識が全く通用しない世界なので、難しいことだが挑戦する価値はある。

そんな考えを持てるようになれば、大切な人ともっと向き合えるのではないかと思う。


みんなはどうだかわからないけど。