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合理に救われ、合理に泣かされ、平衡を模索する

 

勉強不足(宮台真司がいつも言っているギリシャでの主意主義の考え方のこと。覚悟/選択の話)ゆえ陥ったといえば、それまでだが。慎重に真剣に向き合い調整しないと(油断すると)すぐに不均衡に陥ってしまい内面生活や普段の振る舞いに悪影響を及ぼすようになるのが、「合理的(個人にとって有用に生きること)に生きる」ことの問題だ。

読書や作品消費、美、食など感覚的快楽追求(これも合理的に安全圏で行うのだが)以外は合理的に済ませようと思っていた。しかし、最近ある個人と本気で向き合うことを考え、改めて宮台真司と二村ヒトシの対談本『どうしたら愛しあえるの』を4年ぶりくらいに読んだ。この本で印象に残ったのは、恋愛や結婚はある種のエリート的(または特殊な)趣味になるだろうとのことで、この考えに共感した。(この趣味は感情的に依存するようになり精神的危機になりやすくなるから)橘玲が提案しているように、愛情空間は狭くしてゆるいつながりを増やしたほうが幸福になりやすいと主張する理由ともいえるだろう。

しかし、機会があればあえて合理のみの生活から脱し、他者と非言語的にフュージョンすべく試みたいと思った。そうしなければいつまでも現生の感覚が薄っぺらいままだと思った。(傍観者のままということ。少なくともニーチェやハイデガーの生き方ではない)多分、多くの人がある程度合理のみに生きてきたのではないかという印象がある。(日本人は損得で動く場合が多いと言われていることからそう感じた)

合理性を信じる過程(一つのケース)

私は他者が気にならないせいか、自己意識の萌芽が遅かったように思っている。
自己意識が芽生えたのは、他者とのつながりを考察したというよりも、社会科学系の本から読んだ「自由」の諸概念を知ったことがきっかけだった。もとから人を気にせずいわゆる自分の道をいくタイプではあったが、それの強化・裏付け(理屈)作り・選択へ後悔と覚悟が生まれたとき、「合理」を重んじるようになった。
(まあ現在である程度真剣に生きていればどこかで自己意識には目覚めたかもしれない)

共和国化あるいはアメリカナイズした世界では、合理的選択は個人の幸福に影響し、死活問題になることもある。また、ロマン主義的にいうと、合理的に判断できる個人が主体的に判断して生きる感覚は、その過程(人生)を自己陶冶の過程に昇華したように個人に思わせがちである。(教養小説(Bildungsroman)のように。)その感覚はあたっているが、そればかりでは自分がもたない(生きていけない)。(世界はもともとデタラメ・非合理だから)

現代の場合、教養小説的な理由以外で合理性一辺倒に傾きやすい向きはないか。
「主体的に選択できる個人」が生き方として奨励されるのは、労働市場で私たちが長時間過ごすからでもあると思う。仕事は間違いなく合理で動く。(所属する組織のシステムの合理性が欠けているとしても。)
ただ、人間だからそれだけでは物足りないし求職者・転職者も増えない。そこで労働において自己実現の幻想を追い求めるよう、労働市場におけるロマン主義を導入した。とくに拍車をかけたのは(株)リクルートなどではないかと思っている。それはのちにNewsPicksやビジネス本ブーム(意識高い系)につながっていて、今では下火になったがまだこのような層はいるのではないかと思う。しかし、そのような人々の信念は自身を苦しめることにもなる。
また、LGBTへの配慮などを過度にまくし立てる人々も合理(遵法)に縋っているのではないか。

私も上記のような時期(労働へ幻想くこと)もあったが、実際、労働はただ個人が機能しているか/していないかだから労働への幻想に依存するのはやめた。
(今でも好きだけれど、ウエルベックの『地図と領土』は歴史無知で素直な者が読むと労働へロマン主義・理想主義に傾きやすくなるように感じる…)

現代における「祝祭」は社会に織り込まれているともいうが?

合理的ではない、人間の過剰な部分の処理は、「祝祭」と呼ばれた。(バタイユがいったこと。宮台と二村の対談本にもあるし浅田彰の構造と力でも述べられている)いつも社会で窮屈に過ごすしている分の解放の時間だ。
現代における祝祭とは何か?完全に自分の希望どおりに過ごせている人に「祝祭」はいらないのではないかとも思う。ただ、生きるとは他者と関わることだから(資本主義下で他者と関わっていない人などいない)そういう人にも窮屈さは多少あり、祝祭も必要になるだろう…。
(ここは読書・理解・記憶不足)

これらの話題からもわかるように、歴史無知と不注意は自身と周囲を不幸にする。

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