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デリダ入門で、自己からの逃走
あなたは「同一性」を望むか?
私が何年かずっと「自己」と呼んでいるものは、理想とする(想像上の)自分のことだった。
それは、同一性を求める。理想と現実の同一性。あるいは、「自分はこういう人だ」という自覚と実際との同一性。
それにひびが入るときとは、例えば、自分が知らずにいた、自分の認めたくない部分を知ったときだ。
意識が強く神経質な人は、自分の理想とすることを「ものさし」とし、現状の自分と照らし合わせる。「ものさし」からずれている程度を確認し、その都調整することの繰り返し。
しかし、そのように陶冶してできる自己は、実は壊れやすいかもしれない。
(畢竟、自己を守りきるには隠居しなくてはならなくなるかもしれない)
あるいは、目指すところが叶わない場合、自決する可能性もある。
自決するのを否定するのではなく、命をかけるほどの信念があるというのは、少し羨ましく思えることもある。
「一本筋が通っている」とか、言うことを短期間でころころ変えない誠実さは良いものだ。
しかし、「自分以上の何か」を強く持ち、同一性に向かってひたすらに突き進む考えには立ち止まりたくなるところもある。
そもそも、現実の自己というものもはっきり捉えることはできない。
フロイトが無意識を説明したことにより、主体(自己)は捉えきれないものであるとされたが、それ以前に、自分の話す声にしても録音をしない限り、普段人が聞いている「私の声」というものを私自身は把握することはできない。
そんな捉えられない自分に与える理想(ものさし)も、なかなか恣意的で怪しいところがあるのではないか。
あらゆる「同一性を持ちたい」という願望を乗り越えたい場合、頼れる人はジャック・デリダではないだろうか。
デリダの考え『グラマトロジーについて』の大づかみ
小阪修平 著『そうだったのか現代思想』の6章デリダの説明をもとに追っていく。
デリダは「同一性」から逃走しよう(ずらそう)とする。
それは、ナチズムやスターリニズムなど知的抑圧から逃れるためだった。
(日本的ポストモダンの軽いイメージとはわけが違う)
例えば、デリダは一つのまとまった真理があることを否定する。それは、表音文字のロゴス中心主義を否定するということ。ロゴスは言葉とか理性という意味だが、ここではキリスト教的に神の言葉を意味すると理解するとわかりやすいかもしれない。
聖書は神の声の代理であるため、ロゴス中心主義といえる。ソースは神の声のため、聖書の解釈は自由ではない。意味を拡張することのできない、揺るがないロゴスがある。だからそこには正/誤がある。
それと似た意味で、表音文字はアルファベット「A」や、ひらがな「あ」も表現する内容は揺るがない。
声はロゴスほど確かなものではないが、こちらも意味の拡張性は持たない。例えば、「こい」と口で発音をしても(前後の文脈に頼らない限り)発した言葉の意味の違いを判別することはできない。「濃い」または「来い」か、あるいは「鯉」か「恋」か。声は、それぞれの意味の違いを表すことはできない。
一方、文字はどんどん違いを生み出すことができる。とくに、漢字など表意文字は、単語だけでも様々な意味が含まれる。
デリダは、このように、言葉と、そこに含まれるロゴス(真理があること→正誤があること)を切り離し、違いを増殖させていくことを良しとする。
一見、関係ないと思われる事象を組み合わせて新たな意味を生成するようなこと。
デリダの考えをキャリアや市場の話で例えてみると…?
これは、私の意見だけれど、上記の考え方のように物事と物事の間に微妙な違いを見つけて、そこに入り込み、新たな意味を生み出すというのは、市場というか、仕事とも話が似てくるところがあるのではないか。
他の事業者との差別化を考える時や、雇用者が他者と職歴(経験)の差別化を図る時、デリダの考え方と似てくるところがあるのではないかと思った。
この文脈で話すと、既に知れ渡った考え方ともいえる。
浅田彰がかつて本で紹介した考え方
まず、自己や真理が「ある」とは思わないこと。
「完結した一つの何か」があるのではなく、一つ一つの言葉や事象を組み合わせたり、ずらしていくことで新たな意味を得ること。それは「隙間を見つけていく、かんがえもつかなかったようなものをつなげていく(p.265)」こと。
ずらす(逃走)とはドロップ・アウトとは違う。
「ずらす対象は、言語だと言ってもいいし、大学だと言ってもいい。あるいは、市民社会というシステムと考えてもいい(p.264)」
もちろん、自分の理想でもいい。
今回の図書
● 小阪修平(2002)『そうだったのか現代思想』講談社
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