生活保護世帯から東大で博士号を取るまで③

生活保護世帯と世帯分離

生活保護世帯は大学進学できないという事実を知った時、打ちのめされたような気分になりました。
親も学校の先生もこの問題について理解しておらず、自分一人で抱える必要がありました。

だから「世帯分離」というのをすれば進学できるという情報にも自力で辿り着きました。
安心した反面、自分が大学進学することにより家計にダメージを与えざるを得ないという事実に気付かされました。

家計へのダメージということで言えば、中学校の時に通った塾や、大学進学のための参考書代・模試代も大きな負担だったと思います。
中学の時の塾は、破格の安さだったはずですが、それでも月謝を滞納していました。

それもそのはずで、そもそも生活保護世帯にはこうした教育のためのお金は十分には支給されていないのです。
だから、私のために、母親は無理を強いられ続けました。

その限界が来たのは高校2年生の時でした。
ある日、私宛に携帯料金の催促状が届きました。

画質が悪いが請求額には「457,284円」と書かれている

私には全く心当たりのないことでしたが、どうやら母親が勝手に私名義で携帯を契約し、滞納したということのようでした。
携帯料金を生活費に換えていたようです。

このとき、母親が私名義の銀行口座を勝手に作って、それが借金のカタに取られたということも明らかになりました。
この口座は神奈川で詐欺に使われてしまったらしいです。

これらの問題を知った私はひどく動揺し、学校の先生に相談しましたが、彼らの返答は「どうしようもない」ということでした。
このとき、誰も助けてくれないのだということを確信しました。

自分は孤独だということ

この事件があってから、元々悪かった母親との関係はさらに悪化し、
再び食べるものもないような状況になりました。

高校からは給食もなかったので、昼休みはお弁当を食べている同級生の横で何も食べずに勉強をしていました。
そして勉強しながら、その日の晩御飯をどうするかということを考えていました。

ある日、仲の良い(と私は思っていた)同級生が、お弁当を食べながら週末にディズニーランドに行く話をしていました。
私は、彼女たちを憎まないことができませんでした。

耐えられなくなった私は、黙って席を立って、廊下で昼休みが終わるのを待ちました。
このとき、自分はこれから先ずっと他者と親しく付き合うことはできないのだと悟りました。

他にも、例えば私は修学旅行にも行けませんでした。
生活保護世帯では、たとえ子供がアルバイトで収入を得てもその分生活保護費を減らされるだけなので意味がありませんが、
修学旅行費用のためなら例外ということでした。

費用は10万円ほどで、今思えば大した金額ではないように感じます。
しかし勉強時間を削って10万円稼ぐというのは選択肢にありませんでした。
(当時の地元の最低賃金は六百円台でした。)

高校では「あいつはガリ勉だから修学旅行をサボったんだ」と陰口を言われていたようです。

修学旅行のスケジュールには東大見学も含まれていました。
私は行けませんでしたが、その後東大に受かったのは私だけでした。

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