書評 国債膨張の戦後史 米澤潤一
最近、「ザイム真理教」とかいう本を自称エコノミストが出しているが、いわゆる「財務省陰謀論」的な視点が、やはりマスコミの一部にはウケるのだろうし、それが一般にもウケるのだろう。しかし、そう事は単純ではないし、実務の部分を知れば、いかに空虚な考えかがわかる。
著者は財務省の前身の大蔵省で、昭和38年から30年余り、国債業務に長年携わってきた。東京五輪前後の高度成長経済の時代から、ニクソンショック、円高、バブル、その後の崩壊、金融自由化とその時代の変化に応じて、国債発行がどのように行われてきたかを、現場の視点から振り返っている。特に、後書きにある下記の記述が印象に残った。
「こうしてみると、わが国経済が、あるいは経済に対する経済界、政界の意識がいかに外需の減少あるいは減少をもたらすであろう円高への恐怖感と、外需が減るなら財政に頼ろうとする外生変数(外需・財政)依存マインドにとらわれていたかがよくわかる。実力以下の円安を奇貨とした「濡れ手で粟」の外需を当然視し、それが駄目になると財政で支えろという、本来サステイナブルでない需要レベルを要求し続けた。いわば「他力本願・竹馬経済」だった。そして財政出動の回を重ねるにつれて財政への依存感覚(財政出動規模の相場観)は一層重症化していった」
この言葉に、タイトルにある「国債膨張」の歴史がまさに凝縮されている。そして、著者が指摘するのは、国の歳出増がすべて社会保障に喰われて、財政の資源配分機能が失われている点である。ただ、最近の教育無償化や子育て世帯への給付、突然の減税などの迷走を見ると、とても社会保障や歳出削減への取り組みには程遠いのが実情のような気がする。