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BIG FISHで宝塚のフェミニズム的意義を感じた

宝塚歌劇団の親会社、阪急阪神ホールディングスの株主総会が行われた。一部株主は株価低迷をスター個人の責任として糾弾したらしい。


105~106期が宝塚音楽学校時代の飛び降り自殺未遂のような、隠蔽に成功した加害者まで徹底的に洗い出すなら分かる。

しかし週刊誌が槍玉に上げるかが分かれ目では、他のトップスターやスターも宝塚を見限るだろう。阪急の株価ではなく、出版社の株価や権威でも上げたいのでは?と疑った。

ただ「理事長を女性に」という意見には同意である。男社会で引き上げられた女性ではなく、女社会で上がっていった女性が理想だ。

結局、轟悠の存在は無くてはならないものだった。


事件前から宝塚ファンがジェンダー等を語ると、文句をつけるコメントはあった。しかしフェミニズムやジェンダーに問題意識がある宝塚ファンは多い。そうなるだけの理由もある。

星組公演『BIG FISH』を観劇し驚いたのは「父と息子」の話に、父でも息子でもないのに心から感動出来たことだ。

これこそ宝塚が「女性だけの劇団」である効果に思う。


男役でも女性を通して見ると、感情移入しやすくなる。よしながふみの男女逆転大奥を読んだときも、教科書や男性が演じる時代劇にはない「リアルさ」として心に刺さった。男性として生まれると、全てが自分用に出来た世界なのだなとも痛感した。


名作といわれる作品の多くは、男性を中心に作られた話だ。女性が主役でも「男が描く女」が大半である。

しかしタカラジェンヌという女性が咀嚼し演じることで、男性用の世界や論理が女性にも受け入れやすくなるのだ。


それでも「何故オペラ座の怪人をファントムに?」と思うぐらいには、父と息子のテーマが苦手だ。

しかし『BIG FISH』は良かった。

女性が演じた効果だけではない。礼真琴自身の、リアルありきな作品だからである。


トップスター礼真琴をまず象徴するのは「生え抜き」である。

配属時から共に過ごしてきた生え抜きスター、小桜ほのかと極美慎が長く過ごしてきた家族として描かれた。


(轟悠の理事最後予定だった『シラノ・ド・ベルジュラック』のヒロインは小桜ほのか、極美慎も目立つ役で最後の公演でも共に中心人物であった。

シラノは『霧深きエルベのほとり』のフロリアンに通じる人物像なのもあり、礼真琴の栄転というより宝塚のためにあの役割を……と思わずにはいられない)


過去の場面はいつも通り、誰の言葉も聞いてるようで聞いてない不可侵トップスター。

しかし現代シーンは、聞いてないようで全部聞いていた。好き勝手してるように見せながら、妻子の一言一言が胸の奥に刺さっている新境地。

自分亡き後の妻を守るため万全に準備する夫、子に全てを伝え育てる父としての表情。それは上級生として世話をし育てた、下級生との関係性そのものである。

2番手役だがライバルというほど近くもなく、ジェネレーションギャップが辛いほど遠くもない。

師弟的な絆を信じられる、絶妙な配役だった。


もう一つは「首席」という項目だ。

委員長職のため大成しないのが首席ジンクスとされ、名コーチは名選手ではないのが宝塚であった。

しかし組体制をトップ娘役も2番手男役も首席にして成績売りした。そして今回も絡みの多い娘役は、近年首席で売り出された仙名彩世のような星咲希、美園さくら似の詩ちづる、108期首席茉莉那ふみ。

時に足枷になる項目をビジネスとして活用する、宝塚の首席ブームは礼真琴が起こしたと表明していた。


プロ意識でもった商業演劇としての割り切りと、ビジネスの責任をまだ負いきってない頃から築いた本質的な絆。

両方の関係性の相手が勢揃いで迎えてくれるクライマックスは、まさに礼真琴の宝塚人生そのもののようだった。

その中でやっぱり長い間可愛がってきた下級生を呼び出す、生え抜きトップスターの正直さも現れていた。


つまり映像が残せないほどに著作権に厳しく世界的に有名な作品ながら、退団公演のような内輪ネタてんこ盛り芝居やショー感覚で観れたのだ。


父という男性を描いた原作を、男役だが女性であるタカラジェンヌに置き換えた。架空の男性の話を、現実の女性に則して描いていた。

音楽学校や配属時から築いた、現実の人間関係ありきの宝塚だから出来ることである。


パワハラが騒がれる前から、娘役と男役の力関係や格差は議論の的だ。

ただ実際問題、娘役芸が無くても娘役は困らない。隣に立つ男役が男役に見えにくいだけで、娘役にリスクはあまり無い。

一方男役が身体と違う性別として表現するのは、演者としてハンデだ。隣に立つ娘役含めた様々な装飾で成り立っていて、常に「男役に見えない」「女性に見えてしまう」危険と隣り合わせである。
もちろん娘役と男役は平等ではないし、時世や世論、何より内情を考え改善すべき点は多い。だが、ある種の正義はあるように思う。


保守的な内容は多いが活発で自立した女性(娘役)も、男女雇用機会均等法が成立した頃のブームだ。ジェンダーの配慮というには古い。楚々としてようと喧嘩腰だろうと「あるべき女性像を規定する」なら同じ抑圧である。

フェミニズム的にはどんな作品であるべきか、まだまだ模索中で結論には遠い。

そんな現状で「女性の身体や人生で表現する世界」というのは、この上ないフェミニズムではないだろうか。

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