RRRで痛感するご都合主義な差別批判
星組公演『RRR × TAKA"R"AZUKA ~√Bheem~』を観劇した。作品の最重要点は「白人批判」を行ったことであろう。
世界中に定着している白人至上主義は、意識的にも無意識的にも根深い。黒人差別や原爆についての作品でも、白人の顔色を伺った内容から逸脱しきれないのだ。
しかしインドの国力と映画市場の強さによって、白人の目を気にしない映画作りを見せつけた。イギリスの植民地統治は批判を受け入れている方だとはいえ、超悪役や説き伏せられ寄ってくる白人を日本で描くのは鬼門だろう。
国際社会で差別や冷遇を感じるインド人にとって「白人を成敗する」のは痛快であり、自尊心を満たす。
そしてそれは日本を含めた他国の心理にも刺さった。特にアジア人は今年のアカデミー賞でも指摘されているように、白人からの差別に対して「分かっていても怒れない」傾向がある。
黒人差別のタブー視が強まることで、白人の攻撃はアジア人に向かっている話もある。SNSの発展もあり、白人批判にカタルシス的な需要が見えてきた矢先のヒット映画だ。
宝塚版に関しては、演者は全員日本人顔だ。特に今の星組はトップスター礼真琴を中心に「礼真琴っぽい顔」が集まっている。さらに番手の縛りがあり、ヅカメイクから逸脱した化粧も出来ない。
そのため誰がインド人かイギリス人か、微妙なまま物語が進んでいく。思い出したように入る説明台詞が無ければ、国内紛争に見えるだろう。視覚効果がゼロに等しいのは難点ではあるが、白人批判のオブラートとして機能したようにも思う。
差別被害者の鬱憤を込めつつ、ダンスや音楽の娯楽性で広く受け入れさせる。ハリウッド側はお墨付きを与えることで、白人層も受け入れているアピールが出来た。
Win-Winで成功した例といえるだろう。
しかしインドといえばカーストや女性蔑視だ。そのため性犯罪や暴行が犯罪として認識されにくい、超差別大国として認識されている。
日本でも「差別があると思っている人が少ない」というデータで差別社会を否定する人に対して「インドは更に少ない」と言い返す流れがある。
「差別を差別として認識出来ないのが最も酷い差別社会」という説明に使われるほど、誰もが認める差別大国がインドだ。
白人批判は世界的に最も難しい要素といえるが、インドではそれほどでもない。一方でインド自身の根深い差別を自覚し、批判をすることは難しいのだ。
差別というものに向き合う難しさを体現している。
女性差別が「最後まで残る差別」とされるのは、誰もが関わる差別だからだ。
RRRでは誘拐される少女とする白人女性という事件の当事者は女性で、指導者的な救世主が男性。「女が問題を起こし男が解決する」ミソジニーやホモソ思考が垣間見える題材である。
被害者としては声高に糾弾しても、己の加害には無自覚になるのだ。
転落死事件の隠蔽や矮小化を図ることで「生徒を人と思ってない」と宝塚歌劇団への批判が高まっている。
このタイミングに当たったのは全くの偶然だが「どの立場で物言ってる?」とつっこまれそうな台詞も多かった。
そもそも中流家庭以上の支援が無ければ、タカラジェンヌとして活動出来ない。最初から抜擢されるような生徒には、さらに強い後ろ楯がある。
弱者救済や成り上がりとは無縁の劇団だが、そういったテーマが多い矛盾を抱えてもいるのだ。
とはいえ宝塚の事件も単純ではない。
102期の妹含めた転落死遺族は被害者として訴えているが、パワハラの加害者でもあることには絶対に触れようとしない。
セクシー田中さん問題に通じる、文春の掲載方法等をちゃんと故人が了承していたかも秘匿している。
国でも組織でも個人でも、己の加害や原因には無自覚だったり目を逸らすものなのだ。
むしろ被害者や正義として発信できるのは、己の加害から目を背けているからこそだと言っていい。
しかし「どっちもどっち」と雑にまとめれば、現状の強者を後押しすることになる。
勧善懲悪でスッキリ出来るのは、フィクションの世界だけだ。現実の差別や力関係の問題は複雑で、善と悪にはっきりと分けられるものではないと心に留めておきたい。
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