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【小説】切子

 黒というにはあまりにも単純化しすぎているように思えたので、とりあえず僕はこの色に濃青という名前を付けることになった。空の色の話だ。通り沿いに並ぶ街灯は途中からはぼやけて繋がり、直管の蛍光灯のように見える。学校とか、公民館とか、公共性と確かな結びつきがあるやつだった。坂下からぬるぬる這い上がってくるヴェゼルの排気音はひどく不快だったが、僕の横を通過する頃にはそんなことすっかり忘れていて、意識すらしていなかった。
 思うに、と僕の隣でささやく声がした。君は正解がないということに気付くのが早すぎたんじゃないかな。だからせめて間違えないように、間違えないようにってそんなことばっかり考えているの。そういったことは大学生になったころにでも重い腰を上げて考え始めればよかったんだ。それで大人になったと思った時にでも「俺も若い頃は」って言えればそれでいいのに。君の自意識は多分それも許してはくれないんだろうね。
 インスタのストーリーを退屈そうに熱心に眺めている彼女の目は一瞬だけ僕を捉えた。左手の親指は彼女の意識とは無関係に画面を右から左へスワイプしている。黒い髪の毛(こちらは黒と言って差支えがないように思えたし、実際彼女も以前そう言っていた)に混じった金髪がこめかみに垂れている。風情に配慮した、というには気持ちの悪い、整った石畳が秩序をもって続いている。僕にはそれがアスファルトとどう異なるのかよくわからなかった。あるいは一面が石畳に“整備”されていればまた別の感想を抱いたかもしれない。実際のところ石畳に“整備”されているのは歩道だけで、車道は厳然たるコンクリートであった。それは仕方のないことであるようにも思える。
彼女が一通りこなすべき義務を終えて、携帯を上着の左ポケットの中に落とした時、今度は僕が入れ替わりのように携帯を開いていて、何となくネットニュースのスポーツ欄を眺めていた。画面の中では四〇歳になったホアキン・サンチェスが国王杯の優勝トロフィーを掲げている。緑と白の縦縞のユニフォーム。彼の周りにいるのはナビル・フェキル、セルヒオ・カナレス、エクトル・ベジェリン、クラウディオ・ブラボ。顔と名前が一致しているのはそれくらいだった。緑と白の縦縞。僕は昔読んだ小説の中にもレアル・ベティスというチームが出てきたことについて考えていた。作品の中で志野リュウジという高校生が所属していたチームだ。確か彼は二〇〇三、〇四年シーズンに下部リーグから移籍してきて、その小説にもホアキン・サンチェスは登場していたと思う。息の長い選手だ。小説の作者はその後首を吊って自殺したらしかった。緑と白の縦縞。彼のためにデザインされたのではないかと思えるほどにベティスの太陽によく似合っていた。
 街路樹であるけやきの葉には影響しない程度の空気の揺らぎが僕の左脇をすり抜けるのを感じた。そして僕は瞬間的に彼女が僕の隣からいなくなったのだということを理解する。僕の注意を引くために彼女がよくとる手段だった。顔を上げると彼女は少し先にある店のショーウィンドウにへばりついて何かを見ていた。一人で歩いているときだったら通り過ぎているであろう小さなショーウィンドウだった。みて、切子。
 ショーウィンドウのなかでは高さのある棚に等間隔で小さな切子が並べられていた。高さと幅、何かを展示するときには気を使わなければならないことだと思う。ガラスに映った彼女の表情は突然走り出したとは思えないほどに冷静で、深緑色のモッズコートの袖からわずかに覗く指に目がいった。中に入ろうか、と僕は彼女に言った。ねえ、どれが好き、と彼女は言った。私はあの青い桜模様のやつがいいな。だって青い桜ってないじゃん。切子に向けて押し当てられた人差し指は、指先のわずかな震えをガラスで固定しているようだった。僕は適当に赤い紅葉柄の切子について肯定的なそぶりを見せる。それは大きさや用途は同じで、デザインだけが異なる、青い桜模様の切子からは四つ離れた場所においてある切子だった。赤い紅葉柄の切子の手前には¥3000円と書かれた札が控えめに置かれていて、青い桜模様の切子も同じ値段なのだろうと推測がついた。きっと彼女も同じことを思っていただろう。それからしばらくの間、彼女は切子を眺めたり、店内にいた家族連れの子供と目が合うと手を振ったりしていた。
 坂の傾斜が増した。なだらかな変遷ではなく、思春期を迎えた男子のようにはっきりと。
 坂を図形的に想像することはできない。ある地点では歪曲し、ある地点ではビー玉すら制止する坂もあれば、人間が容易く転がっていく坂もある。これは僕の考えだ。坂の傾斜についてはそれ以降現れる建造物を見ればよく理解できた。傾斜に反して建造物は平衡を保っている。角度と角度の衝突。衝突を見ているうちに僕は気分が悪くなってしまったので、以降はなるべく建物を建物として見ないように努めた。傾斜に対して垂直に、斜めに建物が立っていたらどんな印象を持つのだろうか、僕が通りの建物に対して最後に考えたことはそういったことだった。
 ほら、と彼女は僕の左手の中に小さな包みをねじ込んだ。君はコロッケ、私のはメンチカツ。意地悪そうに彼女は笑った。そこの角で曲がって人が少ないところで食べよ。彼女は僕を案内するように半歩前を歩きだした。食べ歩きをすると人々の視線が付いてくることがここ二、三年の特徴だった。彼女の銀色のイヤリングが優しく揺れている。時々吹く生温い風が隠れた金髪を誘い出す。彼女が前に立つと建物を建物として見ないようにするのが幾分楽になったように思えた。彼女以外の景色を総体として見ることができた。ぼやけた街の中では傾斜も調和も大した問題にはならないような気がした。角を曲がったところで彼女は足を止め、メンチカツを食べた。彼女が一口食べるのを見た後で、僕も左手に持った包みを開いて、一口食べた。僕が持っていたのも彼女と同じメンチカツだった。顔を上げると彼女はこちらを見て、先程の続きのように笑っていた。空はまた一つトーンを落としていて、路地をはしる漆黒の黒塀とのわずかではっきりとした色彩の違いに僕は目を細めた。高さと幅、何かを展示するときには気を使わなければならないことだと思う。
 一見さんお断りだって、君のトリセツかな。路地裏をひょこひょこ行き来する彼女の姿を僕は眺めていた。年に一度の桜を見ているような気分で。中の見えない料亭の中を覗き込もうとし、表に出ている料金表の値段に一喜一憂している。必要最低限に、とタイトルがつけられそうな薄暗い照明が不揃いに配置された石畳をぼんやりと照らしている。彼女はそれらの石畳をアスレチックで創造性を働かせる子供のように器用に渡ってみせた。やっぱり路地裏にあるやつの方が石畳って感じするよね。こちらからはまだ薄暗くてよく見えない路地の反対側まで行きついた彼女は、こちらを振り返って言った。柳の葉が静かに揺れて、言葉と重なった。そうだね、と僕は返した。僕が反対側に行き着いた時には彼女は路地の端っこにある小さなラーメン屋の店先を眺めていた。「中華そば きみの」は地区開発に伴い、令和三年三月六日を持ちまして閉店致しました。ご来店いただきましたお客様には心より厚くお礼申し上げます。店先に貼られた貼り紙にはそのように書いてあった。地区開発。まさかこの店の区画だけが地上げの対象地域であるはずはないだろう、僕はそう思った。
 僕と彼女は通りに戻ることにした。特に打ち合わせたわけではないが二人ともそんな気分だった。何年式かもわからない古びたカブに麻袋が被せてある。やっているのかいないのかわからない店のいくつかは隠れ家的な店の特徴ではなく、よく見れば閉店の貼り紙がついていた。来るときには通り過ぎた裏路地の一つは黒塀よりも黒ずんでいて、通り過ぎたのではなく存在に気付かなかったのだということに気付いた。
通りに出るまで彼女と僕は一言も話さなかった。ただ柳が揺れる音や、石畳を叩く足音に集中し、そして慎重に歩いた。何よりもそういったことが大事なように思えた。
 あー、たのしかったなあ。通りに出たとき、彼女はそうつぶやいた。彼女の顔を見ると本当に満足したような顔をしていた。満足した顔でまっすぐ前を見ていた。不思議な子だ、と僕は思った。
「あとどっかよるところある」
「どっかでタバコ吸いたい」
「おっけ」
 僕と彼女は来た道を戻ることにした。坂を上ることにした。
 そこの脇道で吸っちゃえば、と彼女は言った。僕がどういう反応をするかわかっているような口調で。僕は少し先の喫煙所に向かって歩いた。彼女は保護者のように手を後ろで組んで、あとから付いてきた。
 喫煙所の入り口には小さな水たまりができていた。毒の沼地だね、と彼女は言った。彼女は喫煙者ではなかったが、特に事情がない限り喫煙所の中までついてくる子だった。僕がハイライトをポケットから取り出すと彼女は物珍しそうにこちらに視線を向けた。いつものヤツと違うじゃん、アレの匂いが好きなのに。喫煙所の中には僕たち以外に人はおらず、灯りの落ちた路地裏のように静かだった。タバコを吸っていると、目の前を小さな羽虫が横切った。羽虫は僕が吐き出した煙を器用に避けながらしばらくの間、僕と彼女の周りを旋回していた。僕は羽虫を追って彼女のいる方に目を向けると一瞬、彼女が周りの景色と重なり、総体の一部になったような気がした。その時、僕は確かに羽虫のことを見ていた。
 やがて羽虫はいなくなった。僕はまだタバコを吸っていて、足元を見ると一本だけ吸い殻が落ちていることに気が付いた。僕はそれを拾って灰皿の中に入れた。比較的いつも通りの行動だった。そういうのやめなよ。隣で携帯をいじっていた彼女が言った。そういうことしてるとさ、早死にしちゃうよ。君の生き方は。小さいことから変えていかないと、わかってるでしょ。怒っているわけではなかったが、その代わりに寂しそうな顔を浮かべていた。
 吸い終えると、僕はタバコを持ったまま喫煙所の入口へ彼女に合図もせずに歩きだした。虚を突かれた彼女はきょとんとした顔で僕を見ている。入り口には水たまりがあった。ある意味では毒の沼地であったかもしれないが、喫煙所の前にあるということを考えなければ、ただ雨水の溜まった、透き通った浅い水たまりだった。僕はかがんでタバコの先端を水たまりの中に浸した。熱と酸素を失った緩い音があたりに響く。真っ黒な灰が水たまりの中で少しだけ広がってすぐに沈んだ。僕は喫煙所の中に戻って、火の消えたたばこを灰皿の中に落とした。

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