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やさしさを持って生まれた人たちは、どうかそのやさしさを憎まないでほしい

いま、強い危機感を持って、わたしは筆を取っている(厳密に言うと、筆は取っていない)

なぜなら、わたしのやさしい友人が、より正確に言うと、少なくともやさしくあろうとしていた友人が、「やさしさなんかじゃ生きていけねえ」と言ったように、自分には聞こえたからだ。

これは、由々しき事態である。そりゃ、やさしさだけじゃ、生きていけないさ。やさしかろうが、賢かろうが、しぶとくないと生きていけぬ。だから、とにかく死ぬな。どうやったら生きられるかということよりも、どうすれば死なないかということが重要だ。死ななければ、生きてゆける。自分の心体を維持し、しぶとくこんな社会を生き抜いてくれ……

わたしのようにやさしくない人間からすれば、やさしさは才能だ。だから、やさしさを持って生まれた人たちは、どうかそのやさしさを憎まないでほしい。

したがって、今日は警鐘を連打することにした。そろそろ、自分も若き老害の仲間入りだ。老害よろしく、ヤングフレンズたちの煌めく理想を、「そうは言っても現実は」と幾多の冷や水を浴びせてきたこのわたしが、今日は中二となりて誰よりも綺麗事を書こうと思う。その刻が来たのだ。それは、余裕の生まれてきた老害が、レフトな綺麗事を言う精神性に近いような気がするけども、構わない。それでも今日は、警鐘を連打する。

役に立ってなくて、すみません


とあるチームの会議で、メンバーの1人がこう言った。この言葉を聞いて、わたしはひどく反省した。いまのチームは、「役に立たないと、申し訳ない」と思わせる空気なのかと(これは、「困っているときに、困っていると言ってくれないと、おじさんは傷つく」という極めて気持ち悪い発言につながるのだが、それはまた別の話……)

ちょうどこのころ、「やさしい社会」とはなんなのかということの定義を見いだしていた。「やさしい社会」なんて、イマドキ空気の読めない政治家(わたしも含まれる可能性が考えられる)くらいしか使わない言葉かもしれないけど、それがどういう様相なのか、しばらく考えていたのだ。

おそらくそれは、「役に立たなくても、そこにいても良い」と思える共同体なのではないか。「やさしい」とは何かという定義に関しては、まだ整理がついていないのだけど、「やさしい社会」というのは、「無条件に承認が得られ、包摂されるコミュニティ」であると、わたしは、わたしのなかで結論づけた。

たとえば、それは家庭である。家庭という共同体のメンバーは、当然のことながら共同体に貢献するに越したことはないが、貢献すること自体がその共同体のメンバーたる条件になっていない。

一方、「役に立たないと、そこにいてはダメ」なのが、会社である。経営者と労働者の関係である。労働と金品を交換するという契約で結ばれた関係性である。

ここで、家庭が良くて、会社が悪いという議論がしたいわけではない。それぞれに目的があって、その目的に即した組織の形成がなされている。ただ、家庭か/会社かという二者択一の社会に、わたしたちは苦しんでいなかっただろうか。

だから、わたしたちは、地域にいる。家庭でもなく、会社でもない、第三の選択肢として、地域にやってきた。そんなときに、地域のなかで会社的価値観を拡張するような言説があるならば、警鐘を鳴らさなければならない。

ここで、地域という言葉もなかなか定義されないので、わたしなりに定めておこう。地域とは、「その人が責任を果たそうとする地理的範囲である」と考える。言い換えれば、ゴミが落ちていたときに拾おうと思う場所である。したがって、その範囲は各人で異なる。ある人にとっては、町内会エリアだったり、ある人にとっては、都道府県だったりする。ひょっとすると、地球がわたしの地域であるという人もいるかもしれない。

話を戻すと、家庭のように血のつながりはないが、会社のように労働契約もない。何で結ばれているかは各々によるが、それは価値観だったり、目的だったり、行動原理だったり、おおよそ定量化・定性化して共有できない。それが、地域社会というものである。

わたしは、「誰ひとり取り残さない」なんて、過ぎたることを言うつもりはない。ただ、少なくても仲間だと集った人たちとは、「やさしい場所」をつくるという理想を目指していきたいのだ。

なぜ、そんなこと思うかといえば、自分の失敗経験に基づく。


テクニックもいいが、愛は足りているか


彼に出会ったのは、7年前くらいだろうか。地域で活動したいという話、生活が苦しいという話を聞き、雇用して地域活動ができる環境を提供した。

未熟だったわたしは、「戦略的」にやれば、社会に勝って社会を変えられると思っていた(本が売れて調子に乗っていた)。したがって、当時は大学生だった20歳の若者に、「他人の役に立って、周囲を出し抜け」と教えていた。地域で活動したいという願いと、生活が苦しいという悲しみを聴き、この苦しい現状から脱却させるには、社会を生き抜く術を身につけさせなければ。わたしも必死だった。

しかし、土台がなかった。生き抜く力が育むための土壌が、彼には耕されていなかったのだ。端的に言えば、「愛」が足りていない。いま思えば、ネグレクトのような状況で育ったのであろう。もちろん、そのとき彼に「きみは役に立たなくても、ここにいても良い」とは言っていない。むしろ、「役に立たなければ、ここにいる資格はない」というメッセージを発していた。順番が違った。わたしがやるべきことは、まず彼を抱きしめる(もちろん比喩です)ことだったのだ。そして、わたしのもとを彼は、去って行った。

今日、わたしが書いていることは、綺麗事だと思う。だけど、綺麗事だろうがそうでなかろうが、必要なものだ。他人に対して、互酬性のない関係なんて築けるはずがない。そう思われる人の気持ちもわかるが、家庭のなかで「やさしい場所」が得られなかった人は、仕方ないで済ませてしまって良いのか。すべての人に対しては無理だけど、限られた身近な仲間とは、困っていることを共有しながら、助け合って「やさしい場所」をつくろうとすることは、そんなに愚かなことなのだろうか。

加えて、「運に恵まれなかった人」へ家族以外が何かできないのだろうかという理由だけではない。教育の観点からも、「やさしい場所」は必要だ。


自尊の感情を育てるために、順番を違えてはならない


堅苦しい単語で言うと、「自己肯定感」「自己有用感」「自己効力感」というものがあるが、これはこのまま、順番を違えてはならない。

こどもが親から愛されるために、親の役に立とうするのは、極めて不健全だ。「役に立たなくても、ここにいても良い」とされ、「存在が無条件に認められている」。自身が愛されていることに感謝をして、恩を返したいと思い役に立てるようになり、環境に作用し改善していくことができるという感覚と確信が備わるという順序があって、自尊の感情は育つ。

社会に対しても、特定の誰かに対しても、恩恵を受けるために、役に立とうとするのは、不健全だ。当然、親が愛してくれないのであれば、親の役に立って愛を獲得しようという戦術はあるだろう。それと同じく、社会が愛してくれないのであれば、社会の役に立つという作戦もあり得るだろうし、特定の誰かから恩恵を受けたいから、役に立とうとするアプローチもあり得る。

しかし、本当に愛してくれないのか。愛してくれないと言うまえに、確かな自己開示をしているのか。愛してほしいって、ちゃんと言っているのか。わたしたちの社会は、そんなにバトルロワイヤル(例が古い…)のように、決断してタマの取り合いをしないと生きられない社会なのだろうか。

そうだ!という意見もあるだろう。妹を鬼にされたに等しい経験を持つ人もいるだろう。しかし、戦略的に戦えば、鬼に勝てるのだという発想に、誘導されていやしないだろうか。あるいは、仮にあなたが鬼に勝ったとして、世界は救われるのだろうか。上の世代がうまくできなかったから、自分たちはうまくやるんだという気持ちもわかるし、実際にうまくできなかったかもしれない。だからこそ、同じような罠にかかりそうな状況を見過ごせない。


それでは、シン・新自由主義ではないか…


「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい」と言った人がいるが、これが指導者の言葉だとすれば、最悪である。政治家が、自助を説くなよ。確かにこの言葉を言った人は、おそらく後進に育てる思いで、テクニックとして伝えたのかもしれないが、言葉はひとり歩きするものである。この言葉は、テクニックから規範に変わっていく。役に立つというテクニックも、いつ規範に変わらないかはわからない。

「役に立って、恩恵を得る」という発想は、貨幣がお金から信用に変わっただけで、フレームは新自由主義のままだ。もちろん、新自由主義をすべて否定しないが、全て日本は新自由主義で形成されていない(今後はわからないが)。よって、選ばれし者(どの基準で選ばれるかを争っているように思える)は稼いで、そうでない人は自己責任という社会を構築すると、どんな基準で勝者を選んだかは関係なく、いずれにしても社会が壊れる。

そういうことを知ると、おもいやりを持つことができる。どうして壊れるかは、「とはいえ、自民党政治を否定できない」というタイトルで書いてみようかな(たぶん書かない)。


勝ち負けのまえに、やることがあるだろう


今回の記事…… いつにも増して長文になっているけど、このことも連打しておかなければならない。勝ち負けの話である。

もちろん、人には負けられない戦いがある。なんとしても必ず絶対に、勝たなければならないときがある。勝たなければならない戦いとは、負けると教会送りになって、「死んでしまうとは情けない」となるやつだ。死んで復活するのは、極めて骨が折れる。

ひとつ問いたいのだが、あなたの勝ち負けは、教会送りになるようなものなのか。そうではないなら、勝つとか負るとかより死なないように生きろ。生きるというのは、ゲームやっているのとは違う。いちいち細切れにして勝ち負けを決めていたら、お話にならない。そして、勝ち負けの話のまえに、もっとやることがあるんじゃないか。

勝つとか負けるとかの前に、自分のケツは自分で拭けよ!と。自分は、40歳を目前に控えても自信がない。いろんな人の気持ちや、生活を蔑ろにしている。他人に相談しておいて、放ったらかしにしてしまっている件。他人を巻き込んでおいて負けて、仲間が冷や飯になってしまった件。自分が責任を取り切れるものの方が少ない。

そして、責任を取り切れないことと引き換えに背負う業を覚悟して、決断するのが負けられない戦いだ。そんな戦いじゃないなら、とにかく生きて、もし自分に余裕があるときは、誰かのケツを拭いてあげてはくれないか。わたしたちは、責任を取り切れない生き物だ。

わたしは、飲みすぎて嘔吐した仲間を介抱する人を信じるし、飲みすぎて放ったらかしになった洗い物を人知れず片付ける人を信じる。


誰かのための尽くすということ


もし、わたしが、誰かのために尽くすとすれば、それは大事なものを授けてくださったからである。それは、互酬性という暮らしの仕草ではなく、かけがえがないものを守りたいという想いだ。

自分と一回りも違うのに、能力が備わり気骨のある若者がいるとする。大きな単語を使うとすれば、それは「希望」である。

20代後半から30代にかけて、わたしを応援してくれた人の気持ちがいまならわかる。40歳に差し掛かると、自分も努力してやってきたが、やれたことやれなかったことがあって、うちやれなかったことのいくつかを自分は成し遂げられないかもなという限界が見えてくる。そうすると、若者に託したくなる。その心情を中二的に表現するなら、「おれの屍を越えてゆけ」である。

社会に受け入れられるべきなのに、届いていない才能があったとする。大きな単語を使うとすれば、それは「使命」である。

このときのわたしの行動は、明確に決まっていて、「わたしと一緒に本をつくりませんか」と誘うのだ。ちっぽけかもしれないが、全身全霊をかけて黒子役(黒子になりきれていない説があるが)をやりきる覚悟である。

力を振り絞り尽くし切って、その願いが叶ったとき。相手だけが有名になり、ともに戦った日々と自分のことを忘れられてしまったら、嫉妬と寂しさに苛まれるだろう。しかし、こちらには本が残っている。売上が残る。これは、恨みを抱かないためのわたしの打算だ。裏切られても、儲けさせてもらったなら良いじゃないか。わたしは、木綿のハンカチーフであなたを許せない。

しかし、その覚悟で望んだからなのか、彼は有名になっても忘れなかった。まあ、1例しかないのだが。著者として誘った人も、片手で数えるくらいしかいない。10年で2冊しか本を出していない。覚悟とは、そういうことではないか。のっぴきならない気迫で、膝詰めになって組む。誰でも彼でも、気安く声をかける人を信じない。


共感力と想像力


最後に、「やさしさ」と「おもいやり」について書こうと思う。この2つをわたしは明確に分けていて、自分は「おもいやりのない人間だとは思わないが、やさしさには欠ける人間だ」と言っている。

前段で「やさしさ」についての定義について、まだ自分は明らかじゃないと書いたが、他人への共感力が「やさしさ」で、他人への想像力が「おもいやり」なのかもしれない。そんな気もしてる。

「共感の時代」なんて言われているが、主に「どうやって共感させるか」という文脈であろう。それも大事なことであるが、それよりも「どうやって共感するか」が見過ごされていて、それが大事なのではないかと感じている。

共感できる人たちが集えば、そこは平和だ。自分と異なる価値観を持つ人を断言して切り捨てたり、AではなくBだとアンチテーゼを逆張りしたり、こっちなのかあっちなのかと二項対立の構図を持ち出したりする、そんな野蛮な社会で「やさしい人」が果たせる役目は大きい。

アマゾン創業者のジェフ・べゾスが、幼少のころおじいちゃんに、「賢くあるよりも、優しくあるほうが難しいことだと、お前もいつかわかるようになるよ」と言われたという話があるが、まさにそのとおりであるなあ。そんなことを、しみじみと感じている。

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まるで手紙のような記事になってしまったのですが、「やさしい人が、やさしいからこそ、やさしさを捨てて闇落ちする」みたいな状況は、もう社会から消してしまいたいと思い、宣言の気持ちで記事としてまとめてみました。

どうすれば死なないか、しぶとく生きるにはどうしたら良いのかについても書くと良いのでしょうけど、もし気になる方がおりましたら、うちの宿に泊まりに来てください(営業か!)。こんなことあんなこともやってます。ということで、今日のところは、わたしからのはなむけです。

本当にやさしい人であれば、あなたを心配している人がいる。

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