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香立

心がわさわさして落ち着かないためまた椅子座禅をしたのですが、それでも落ち着かず、どうしたものかとリビングを見回すと、茶色のサイドボードの上のコーヒーメーカーと電気ケトルの間に、銀色のお香立てが置かれているのが目に留まりました。この香立は、大阪での新生活をスタートした頃、街の散策も兼ねて梅田から中津に徒歩であてもなく向かっていた時に、阪急3番街うめ茶小路で「一香一会」に立ち寄ったのがきっかけとなって購入したものです。

その頃私は、何か新しいことを始めたいと音楽教室や文章教室に体験レッスンに行ったり、カルチャーセンターで仏教講座を受け始めたりと、メキシコで欠乏していた日本での日常生活を焦って取り戻そうとするかのように、精力的に新しいものを追い求めていました。自分は50歳を起点に生まれ変わるんだと何の脈絡もなく閃いたアイディアに勢いに任せて乗っかって、大阪の街を、それこそ長く苦しい受験勉強の末に大学に入学し、青春を謳歌する大学生のように自由に闊歩していた気がします。

「一香一会」は様々なジャンルの古書店の立ち並ぶうめ茶小路にしっくりと収まって、私のはやりがちな心をたしなめてくれるような芳しい香りを遠慮気味に届けてくれました。中に入ってみると、様々な種類のお香が揃っておりましたが、若干へそ曲がりな私はむしろそのお香を点てる香立の方に興味を持ってしまいました。しかしその当時、まだコロナ禍の影響がかなり尾を引いていて、店の人と話をしていると私の気に入った香立は、それを作ってくれる北陸の職人さんの体制が整わず、入荷予定が立たないとのこと。

そんな訳で、本当は入荷したら電話をくれるように頼んだらよかったのですが、この梅田・中津間の散歩が気に入ったため、店の前を定期的に通ってショーウィンドウ越しに入荷をチェックするというようなまどろっこしいことを半年も続けてしまいました。そのうめ茶小路のこじんまり落ち着いたレトロな雰囲気にも惹かれたからだと思います。入荷するのかしないのかは、二の次で、このような風情ある街角を通ることそのものに言い知れぬ幸せを感じていました。

そんなある日、いつものようにその店先を通り過ぎようとすると、幾種類もの香立が陳列されているではありませんか。私は勇んで店内に入り、そこに並べられた数種類の香立を吟味し、ついに念願のアロマライフを手に入れたのでした。

一時期は香道の教室にまで通ってしまう程、アロマの世界にはまってしまっていたのですが、熱しやすく冷めやすい私は、次第に神社仏閣を巡って時々線香の匂いに癒されることで満足するようになり、購入した香立の活躍機会は次第に減っていたのでした。

でも香立はとてもシンプルなもので、簡単な手入れのみで、いつでも思い立った時に使用可能です。ふと自分のこころがざわついている時、何か癒しを求めたいと思っている時、どこか異空間に旅をしたいと思った時にいつでも願いを叶えてくれます。好きな匂いをみつけるという楽しみもありますし、その過程でかつてその匂いを嗅いだ時の幸せな情景が蘇って思わぬ時空旅行をすることができたり、或いはその匂いを頼りに素晴らしい未来を思い描くことも、なんでも可能です。

そんな魔法の道具が手近にあることを私はこのところ完全に忘れておりました。今回幸運なことに久しぶりにお香を焚いてみて、大阪に来て新たな一歩を踏み出そうとしていた自分に出合うことができました。今までどちらかというと、これから始まるであろう東京での新たな生活から目を逸らし大阪での思い出に浸りがちだった自分を反省し、またあの時と同じように前に一歩を踏み出そうと思い直す良いきっかけとなりました。香立との家の中での一期一会に感謝しています。


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