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漱石先生も難渋していた授業中。

オンライン授業の3年

2023年も4月を迎え、年度が入れ替わった。
とにかくここまでは辿り着いたという気がするが、長かったなとも思う。未だコロナウィルスという感染症の予防や治療には、完全な道筋が立っているわけではないけれど、この3年余りで自分の職域にもたらした変化は、改めていちいち書き連ねることもないだろう。
YouTubeなどで現役の日本語教師が運営、制作している動画チャンネルを見ても、授業の準備や工夫、効果的なPPTの作成など、結構実用的な情報が溢れている。教室での対面授業、一つの空間を共有しながらの授業に代用するオンライン授業であったのが、むしろ、そのスキルを得たい、増やしたいという人が増えた。

そして、「レッスン=コミュニケーション」の形は変化を重ねていく。進化は毎日だ。「文明の進化というものは個人の発想、工夫から始まっている」と僕は考え込んでいるが、やはりそこは試行錯誤にTry and Error、七転び八起きにクレームからの発見もあっての前進ということになる。どの時代も、不便さの発見がなければ、前進は生まれないのだ。

とは言いつつも、少し振り返りの心算で、3年前に初めてZoomを使用した時の授業を、わずかな記憶をもとに書き連ねることにした。
対面に代わる新しい授業の模索が始まり、オンライン授業として役に立ちそうなZoomを覚えることになったのだが、以下は、僕が留学生のクラスに遠隔で授業を始めた初期の印象だ。

画面では全てが伝わらない。

まず、授業が開始された直後のことについて。多分、どこの国の言葉も画面だけで教えるのは手間がかかると思うのだけれど、日本語も勿論そうだ。学生が本当に理解しているのか、理解していないのか、画面に映る表情を窺うだけでは、あまり確信が持てない。対面授業では表情を近くで見て察しをつけたり、個別に話しかけることもできるが、Zoomでは何より手元の動きが見えない。
鉛筆を持ってノートや紙に文字を書きつけていれば、それはその人なりに得た情報や疑問を書き出したり、理解を深めるための要点を整理していると判断ができる。これが教室での対面授業の話。
 
次に、Zoomの授業を受けながら、パソコンの別画面で違うことをしている人達である。本を開いている姿や文字を書いている姿と、キーボードを指で叩いている姿とでは、体の揺れる感じが違う。鉛筆を持っている時は手元を見ているので顔も俯いたようになり、手から肩にかけても揺れている。

パソコンの場合は画面を見ているので、顔はほぼ正面を向いたままか、少し顎が上向いている。その状態で表情がにやけていたりしていたら、何か楽しいことでも発見したのだろうと察しをつけることになる。常に察知しながら進めるのがオンライン授業で、ここが基本的に意見の伝達をし合うオンライン面接や会議とは違うところだ。「私の話が分かりますか?」というMakeSureが多くなってしまうのである。

漱石先生のご苦労とIT。

夏目漱石という作家がいた。言わずと知れた話だが、彼は100年前の日本で、高校で英語の先生、大学で英文学の講師をしていた。
彼が東京大学で文学の講義をしていた頃のある日、出席していた学生の一人が着物の懐に腕をしまって、袖から手を出さずにいた。それに腹を立てた漱石が「失礼じゃないか。手を出せ」と注意したのだが、不幸なことに、その学生は生まれつき腕のない人だった。

漱石もきっと、無意識に学生の手元を見る癖がついていて、日々ストレスを感じていたのだろう。そして、授業に集中できずにいる学生達にもどかしさを感じていたのである。しかし、ストレスは一度誤解を生むと悲劇も起こす。漱石はその後しばらくの間、教室で愕然として口もきけなかったとのことである。

ところで、漱石が現代の世でパソコンをいじり出したらどうなるだろうか。新しい物に敏感で、家族、友人に書き送った書簡も膨大だっただけに、コミュニケーションツールへの興味は凄まじかったはずである。一人で機能をあれこれ試しながら覚えて、小説の執筆や資料の収集整理もきっちりこなしていたような気がする。本の印税や家計の収支管理までやっていそうだ。彼は身内からの金銭の無心、弟子たちの援助にも、多くのお金を使っていたのである。
 
次に、もし授業でZoomを使っていたら、画面共有をする資料を見やすくパワーポイントにしたり、ブレイクアウトルームで学生が議論したりするチャンスも的確に与えていたことだろう。きっと、パソコンの操作やZoomの使い勝手に行き詰まることがあった時も、一人であれこれ検索して調べながら対処して、仕事もこなしているタイプだ。これぞまさしく知識人の姿なのである。一方で、Zoomで授業をしている漱石は、画面越しにあらぬ方向を見ていたり、意味もなく手を動かしているような学生には、やはり苛々したり叱りつけたりしているのかもしれない。先生とは、学生の小さな動きも追いかけてしまうものなのだ。

あせってはいけません

夏目漱石は、自身も留学経験の持ち主だった。イギリスの大学での専攻は、実は文学ではなく英語教育であった。しかし、馴れない英国での暮らしにメンタルを病んでしまい、一年で帰国することになる。そんな彼だから、日本に暮らす外国人留学生の気持ちを察したり、言葉を学ぶ苦しさも理解した上で、学生と深みのある向き合い方ができるような気がする。加えて、若い頃から漢文の読み書き、漢詩の創作も得意としていたので、漢字圏の留学生ともコミュニケーションに不自由はなかったろうと思う。今の時代に日本語教育機関の先生だったら、実に強力な戦力である。

「あせってはいけません。ただ、牛のように、図々しく進んで行くのが大事です」

 漱石が遺した言葉の一つである。人生の機微に触れるような深い話に加えて、たまに独特の皮肉っぽい冗談も聞けるとしたら、そこは更に深い学びの場所になるのではないか。いろいろなことに理解と苦悩を持つ人の存在が、あせっている人にも、だらだらしている人にも、どこかで光を差しているのである。

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