思考のアプデに俺は耐えられるのか??

世の中には言うことがコロコロ変わったり、考え方が変わったりする奴がいる。
そんなことをふと考えていた時のことだ。

人間はしばしば考え方や思考がアップデートしていく。
いいことだ。
多かれ少なかれ、歳を取れば何かしらの変化はあるだろう。
経験から教訓を得ることは誰しもある。
俺にもある。

俺は、ほふく前進のようにいろんなものを避けながら、前だか後ろだかもわからないまま、それでもゆっくりと進んでいるつもりだ。
自分の思考の話だ。

ただここに、急激な思考のアプデが訪れた時、自分が自分であることを信じられるだろうか。
既存の思考回路から逸脱したものを受け入れてしまったときに、何を持って自分を自分だと担保できてるのだろうか。

非常に怖い。
だけど、客観視してみたら、
なかなかに中坊のような問いだ。
自分は何者で、どこへ向かっていて、、
という不確かな不安が付き纏っていた中学時代を思い出す。。
俺はまだそこにいるのか?
大人はこんなことを真面目に考えたりしないだろう。
まぁいい。一旦忘れよう。

コロコロ変わる奴を間近に見たこともないから、ユニコーンのような幻獣なんだけど、そいつらはどうやって自分が自分であると信じているんだろうか。
単純な疑問が湧いた。

そんなやつの話は心底どうでもいいから、自分に置き換えて考えてみたい。

自分が自分たらしめている要素がなんなのかという話だ。
外見や出生の話はしない。
内面の話がしたい。

そんな問いを考えていたら、思い出した。
俺は、大学入試前後でだいぶ考え方が変わった。
強制的に変わってしまったと言ったらそうだけど、思い返してみると、生きるために肯定的に考え方を変えたとも言える。

その以前以後で自分が生まれ変わったような、違う人間のような気はしない。
ちゃんと地続きだ。
今までにはなかった感覚が急に舞い込んできたわけではない。
スピってはない。
思考を重ねて、自分なりに噛み砕いて、やっと自分がアップデートされるわけだ。
自分の中で納得した上でのアプデだ。

一つわかったような気がする。
俺は俺なりに思考してアプデをしてきたから、地続きに繋がっている。
考え方が変わったとしても、なぜ変わったのか、過去を遡ればわかるはずだ。
自分を自分たらしめているのは、過去から今までの思考の過程なのだろう。
それが繋がっていることが大事そうだ。

それなら、急にアプデを強いられたらどうだろう。
社会的な思考や、こうあるべきという一般論、倫理などを人に押し付けられたら?

おそらくそれも同じように自分なりにゆっくり噛み砕いて理解する作業があればなんとかなりそうな気がする。
というか、この作業はもうすでにやっている?
必要のないものは排除もしているだろう。

反対に、脳死で作業のように他人から受けた価値観のアプデをし続けたらどうなるだろうか?
それはまるで家具も服も家電も全て選んでもらって、家に搬入した状態のまま暮らしているような感じがする。
相当気持ちが悪い。
選んでもらったにしても自分なりに、配置を考えたり、現状持ってる服とでコーディネートを考えたりすれば少しは自分らしくなりそうだ。

俺が怖いのは、自分主体ではない受け入れ難いアプデを強いられたときに俺は耐えられるのかということだ。
それが生きていくということならどうやって噛み砕いて、自分を保つのかが肝だろう。
または俺が積み上げてきた頑固な自我をどう柔らかくしていくか。
納得してアプデしない限りは成立しないだろう。

無理やりはめ込んでみて、後からゆっくり慣れてくることもあるとは思う。

ただ一つ言うとすれば、
他人のいろんな価値観に蝕まれて、自分を構造している価値観が全て他人にならないようにしたい。

そうならないようにするために、
「今までの自分」と、「新しく入ってきた価値観」の間の部分を、自分で思考して繋いであげる作業が必要そうだ。
俺の持っているピースと新しいピースをうまくはめ込むように。
それができれば、自分が自分であることを信じれそうだ。
先ほど言った、繋がりがあるということだ。

現状、過去から考え方を、自分の意思で変化させられている。
これからも新しい価値観が入ってくるなら自分なりによく噛み砕く必要がありそうだ。
まだ自分に合わない思考のアプデは自分を見失いかねない。
もしかしたら、一生はまらないピースもあるかもしれない。

題名になぞって言うなら、
俺が耐えられないアプデはしなくていいんじゃないか?
甘ったるいとは思うが、自分が自分であり続けるには必要だ。

変わりたくないわけじゃない。
変わるためには、自分の歩んできた思考の過程が大事だということだ。

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