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【小説】 愛のギロチン 13

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店員が持ってきた瓶ビールを大貫のグラスに傾ける。

「本当に大丈夫なんですか? 肝臓が悪いんでしょ」

「阿呆。ガキじゃあるめえし、飲み屋に来て烏龍茶なんて飲めるかよ」

居酒屋を選んだのは自分じゃないかと思いながら、キリンビールのロゴが書かれた小さなグラスにビールを注いだ。黄金色の液体が麒麟の肌を染めていく。その上に、生中よりも繊細な泡が散る。

「さあ、お前も飲めよ」

注ぎ終えると、ちゃぶ台の上を大貫の腕が伸び、俺の手から瓶を取った。ゴツゴツした老人の手なのに、その所作は無駄がなく妙にしなやかだ。阿呆だの何だととにかくクチの悪い大貫からは想像できない、上品とも言える動きだった。

思わず見惚れてぼんやりする俺に、「おい、グラス」と大貫が言う。

「あ……ああ、すいません」

俺は慌てて自分のグラスを持つと、少し傾けて大貫の酌を受ける。トットットっと音を立てながら、命が吹き込まれるように嵩が増していく。その様子を見下ろしながら、どうしてこんなことになっているのかと考える。

一時間ほど前、家に戻ってきた俺を大貫が待ち受けていた。

大貫は階段の一番上の段に腰掛け、まだ包帯の巻かれた足をブラブラさせていた。そして、隣には立て掛けてある松葉杖に手を伸ばしながら、さも当然のように言ったのだ。

「よし、ちょっくら飲みに出るぞ」

そのとき俺の手には、コンビニで買ったばかりの弁当と惣菜があった。断るのが苦手な俺だって、これほど明確な理由がれば、言えたはずだ。

晩飯買ってきちゃって。だからつきあえません。

だいたい人を待ち伏せるのは百歩譲って自由だとして、なぜ俺の予定も確かめず飲みに行くなどと言えるのか。

そうだ。別に晩飯を買ってきたかどうかなど関係ない。別に俺が手ぶらで帰ってきたのだとしても、気にすることなく言えばいいじゃないか。飲みには出ません、俺はあなたと酒を飲みたくはありません、と。

だが、俺は断ることができなかった。

いや、あるいは、断らなかったのかもしれない。

後輩に言われた言葉に心がざわついていた。まるで俺の15年を否定するような言葉。いやそれ以上に俺は、求人事業そのものを否定されたことに動揺していた。

オサラバして当然の仕事? 後輩の言葉を聞いて、自分はこの仕事が好きだったのかもしれないと気付いた。

笑い話だ。15年も続けてきたのに、この仕事から離れることが決まった今になって、やっとわかったのだ。

……

「どうした、グイッと行けよ」

言われてハッとする。

顔を上げると、眉間にシワの寄った大貫の顔があった。険しいその表情はしかし、何度もぼーっとしてしまう俺を心配しているようでもある。

口は悪いし勝手だし横暴な爺さんだが、なんだかんだ人はいいのかもしれない。

そうだ。だからこそ俺は、考えたんじゃないのか? このモヤモヤした心の内を聞いてもらいたいと。

会社の上司や同僚はもちろん、退職などせず真面目に働いている友人、あるいはこの歳で無職となる息子を心配する両親には話せないことを、この老人になら話せるかもしれないと、無意識に考えたんじゃないのか?

「いただきます」

恥ずかしい本音に行き当たった居心地の悪さに、俺はグラスを煽った。冷えて尖った液体が、喉の内側をカリカリと引っ掻くように落ちていく。

あっという間に空になったグラスをどん、とちゃぶ台に置くと、大貫の顔がぱっと明るくなる。

「なんだなんだ、景気がいいじゃねえか。じゃ、俺も」

そう言って大貫も同じように一気飲みをし、俺を真似るようにグラスをどん、と置く。そして瓶に手を伸ばすと、次のビールを俺のグラスに満たし、自分の分も手酌で注ぐ。

「さあ、どんどん行こうや」

大貫はそう言って、2杯目のグラスもあっという間に空にしてしまう。本当に体は大丈夫なのだろうか。いや、仕事をドクターストップされるくらいなのだ、大丈夫なはずがない。今すぐに飲むのをやめて、店から出ていったほうがいいのかもしれない。

だが、片手でビールを注ぎながら、反対の手でメニューを持ち、何を頼もうかと眉間にシワを寄せて迷っているこの老人との時間を、俺はなぜか切り上げる気にならなかった。

自分の話を聞いてもらいたいという欲求が、妙な形で反転し、大貫への興味として返ってくる。

「大貫さんって、一人暮らしですよね」

自分でも驚くほど自然なトーンで、俺は聞いた。大貫はメニューの揚げ物のページを見たまま、「ああ」と答える。そしてブツブツと、「アジフライか……いや、串カツもいいな」などと続ける。

もう少し体に良さそうなものを頼めばいいのに、というか、俺の好みを聞く気はないんだな、などと考えつつ、俺はビールを一口飲み、次の質問を投げる。

「ご家族とか……お子さんとかは」

言った途端、大貫の表情がこわばった。

つづく

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