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【最終回】ひとりで屋久島に行ってきた。 その8

はじめに

はてさて、随分と間があいてしまった。

成人して20年近く経つのに一向に「大人とはなにか」がわからないアラフォーおやじの、3泊4日の屋久島一人旅。せっかくだし記録しておこうと書き始めたこのレポートも、今回が最終回です。

さて、第1回目の投稿冒頭は、こんな感じで始まっている。

3泊4日で屋久島に行ってきた。妻子持ちの38歳フリーランス、自分探しの一人旅。その年齢で自分探しっておっさんマジかよ、そんな声が聞こえてきそうだがマジもマジだ。ヒゲに白髪が交じるようになった今でも精神年齢は16歳で止まったまま。中二病真っ盛り。ノーミュージックノーライフ。まあいいや、とにかく旅の記憶が残っているうちに、多少の記録をつけておく。

屋久島に滞在したのが2019年4月22日〜25日。この1回目の投稿は帰宅後間もない4月29日にされているから、たしかに”旅の記憶が残っているうち”だろう。2回目が4月30日、3回目が5月1日と連続で投稿し、そこからは若干間が空きつつも、なんだかんだ月に1回は更新していて、前回、つまり「その7」が投稿されたのが8月8日。これを書いている12月15日から実に4ヶ月以上も前のことだ。

なぜこんなことを細かく書いているかって、最終回の投稿をなぜ4ヶ月もしなかったのか、いや、「できなかった」のか、自分にはその理由が何となくわかっているからだ。

怖かった。

書くのが怖かった。

それが理由だ。


今回の旅の行程

ちなみに、ここまでの工程をざっくり振り返っておくと、

【1日目】
早朝に羽田空港から鹿児島空港へ

鹿児島市街に移動し多少の観光をしたあと、港から高速船で屋久島に移動

宿に移動しブラブラ散歩〜スーパーで酒買って部屋で軽く飲んで早めに就寝

【2日目】
暗いうちに起きて、ガイドさんの迎えで縄文杉トレッキングへ

ガッツリ20数kmのトレッキング〜夕方宿に戻ってくる

繁華街に出てスナックに突撃〜情報収集しつつそこそこ飲んで宿に戻って就寝

【3日目】
レンタカーを借りて、屋久島外周をぐるっと一周する旅へ

レストランやら滝やら温泉やら空港やらに寄りつつ宮之浦に戻ってくる

と、ここまでが本レポート「その7」までで書いたところ。記事の終わりはこう結ばれている。

ということで、長々書いてきました「屋久島レンタカーぐるりの旅」はここで終了。次回は屋久島最後の夜、さんざん飲んだくれた挙げ句、某マスターから教えてもらった、一般人が知らない屋久島の歴史について書こうと思います。

つまり本エントリ「その8」は、レンタカーでの屋久島一周の旅から戻った後、島滞在3日目の夜の出来事を著すものである。

滞在3日目、夜

レンタカーを返し、宿に戻った。1日目の夜には2日目の縄文杉トレッキング、2日目の夜には3日目のレンタカーの旅のことが頭にあったので、何も考えずにガッツリ飲めるのは3日目の夜しかない、と思っていた(4日目は帰るだけだから二日酔いでも大丈夫かなと)。

レポート「その4」でも書いた散策で宮之浦の飲み屋についてはだいたい把握していた。屋久島最後の夜をどこで過ごそうか、と一度は考えたふりをしたが、実は行く店は決まっていた。先日前を通りかかったとき、なんとなくビビッとくるものがあったあの店。他の店とは離れた場所にポツンと立つ、見るからに”クセの強そうな”面構えのあの店。

ただただ楽しかった屋久島の旅。最後の夜はあそこで気持ちよく酔っ払おう、そんな気持ちでドアを開けたその数時間後、まさか自分が理由のよくわからない感情に襲われ涙することになるなんて、思ってもいなかった。

屋久島「裏」歴史

はじまりはゆるやかだった。怒ったらぜってーおっかねえだろうなと思うマスターと、対を成すように穏やかなママさん。早い時間だったからだろう、広い店内に客はまばら。一人客は自分だけで、誰もいないカウンターに座ってビールを頼む。

「一人旅なんです。今日はレンタカー借りて島を一周して。西部林道がとても良かったです。猿にも会えたし」

言葉少なにタバコを吸っているマスターに話した。日本でも有数の観光地である屋久島、こんな話は何百回と聞いているのだろう。マスターは目を細めて、それでも決して感じの悪い雰囲気は見せず、聞いてくれていた。

それが少しだけ変化したのは、話が縄文杉トレッキングの話題に移ったときだった。

「縄文杉も見に行きました。というか、今回の旅で決まってた予定はそれだけで」

「ああ、縄文杉ね。どうだった?」

あれ? と思った。なんとなく含みのある聞き方だと思った。なんだろう、と思いつつ、会話のレイヤーが一つ上げれる気がして、感想を正直に話した。

「良かったですよ。良かったですけど、縄文杉が良かったというより、それを見に行って、帰ってくるあの工程全体が良かったって感じです。逆に言えば、縄文杉自体はそこまで印象に残らなかったっていうか」

ふうん、という感じで頷くマスター。特に返答がなかったので、会話を続けるため、という感じで聞いた。

「マスターも見られたことはあるんでしょうね。島の方ですもんね」

島で生まれ育ち、一度は外に出たものの戻ってきた、という経歴は既に聞いていた。縄文杉と言えば島一番の観光地だ。さすがに何度も行っているんだろうと思っていた。

「そりゃあるけどね」

マスターは言った。だが、そこに続く言葉は意外なものだった。

「でも、初めて見たのは30歳過ぎてからだよ」

生きる、ということ

「え、そうなんですか? 意外と地元だと行かないもんなんですかね。東京の人が東京タワーに登らない的な」

「いや、そういう意味じゃない」

マスターはそして、そもそも縄文杉が見つかったのが1960年代後半で、自分が小さかった頃にはまだその存在は知られていなかった、と説明してくれた。

そうか、と思う。おそらく自分より20歳近くは年上のマスターの子供時代にには、そもそも縄文杉が発見されていなかったのだ。確かに、あの深い山の奥だ。自然を守ろう、できるだけ人間は関与しないようにしよう、というスタンスの屋久島に於いては、なおさら発見されづらい状況だったのかもしれない。

発見されていなければ、見に行くこともない。まあそれはそうだろう、と思いつつ、とはいえ森はその頃からあったはずだ。縄文杉は見たことがなくても、山は身近なものだっただろう。

だが、そう言う自分にマスターは首を振って見せた。

「違うんだよ。縄文杉が見つかる前、屋久島の山は登るようなところじゃなかった。危なくてしかたなかったんだよ。あの頃の山なんてな」

マスターはどこか自嘲的に笑った。

「危ない? 山が、ですか?」

「ああ。あの頃の屋久島は、林業真っ盛りの時代さ。木をガンガン切って、それをトラックが運んでくる。山から麓に繋がる道路は、木材を満載したトラックがすごいスピードで駆け下りおてくる危険な場所だったんだよ。俺たちみたいなガキにとって、山ってのはおっかない工事現場みたいなもんだった。君たちのような観光の人には想像もつかないだろうがね、屋久島が”今のような姿”になったのは、そんなに昔のことじゃないんだよ」

マスターの話は意外なものだった。屋久島といえば縄文杉、そして世界自然遺産にも登録された大自然。実際、ここに至る3日間、特に2日目に経験した縄文杉トレッキングでは、島の人たちの自然に対する(過剰だと感じるほどの)気の遣いようを目の当たりにしていた。

それが、「ガンガン木を切っていた」? いやそもそも、屋久杉って切っていいんだっけ。つうかここ世界自然遺産でしょうが。……と思ったのだが、世界自然遺産登録は1993年12月のこと。まったく知らなかったのだが、それまでの屋久島は林業の島だったのだ。「米作、畑作に不向きな屋久島の年貢は、屋久杉を伐採加工した平木で納めることになった(Wikipediaより)」というほど、木材という商品を生活基盤としていた場所なのだった。

この時点で”THE観光客”の自分には若干ショックな話だった。もちろん、林業という事業・文化を否定するものではないが、屋久島=手つかずの自然が残る場所、というイメージは自分の中にもあった。人間の手が入っていないからこそ、特別な体験ができるのではないかという期待感を抱くこともできた。

一方で、Wikipediaのエピソードが示す通り、林業、すなわち屋久杉の伐採および販売は、食物の生産に苦労した島民が生きるため必死に見出した道でもある。その苦労や葛藤を何も知らない自分が、ショックを受けること自体がおこがましいような気もする。

進む酒に徐々に頭が痺れてくるのを感じつつ、「そうだよな、生きるってそういうことだよな」と納得しようと努めた。

だが、マスターはまた新たな爆弾を放り込んでくる。

「つまり、世界自然遺産の登録という出来事は、表側から見れば屋久島の観光地化のスタートラインであり、裏側から見れば、屋久島林業の終焉、ということになるわけだ。縄文杉のトレッキングに行ったなら、途中、廃村を見ただろう。あれは全部林業をやってた集落の跡だ。そもそも、登山ルートになっているあのトロッコのレールは、切った屋久杉を運ぶために敷かれたものだったんだよ」

河川による分断

要するに、世界遺産登録という出来事を境に、屋久島は変化した。屋久杉を切れなくなった島は、観光業へと主事業を転換した。いや、転換せざるを得なかったと言ってもいい。林業に関わってきた人間は仕事を失うこととなった。木の近く、つまりは森の奥深くに住んでいた林業従事者、そしてその家族たちは、自然保護の観点から、同時に日銭を稼ぐ必要性から、森を出て島の沿岸部に生活拠点を移していく。

このレポートで以前、こんなことを書いた。

ご存知の通り屋久島というのは、世界的にも珍しい世界自然遺産に認定された島である。実際に世界自然遺産に認定されているのは全面積の約2割とはいえ、自然保護に対する意識の高さは島全体に及ぶものだ。

上記の画像を見ても、(島のほとんどを占める)山林に、集落らしきものは見当たらない。つまるところ屋久島の島民は、山林の中に住んでいないのだ。

じゃあ、どこに住んでいるのか。

沿岸部である。

このときの自分は、屋久島というのは”もともと”そういう島なのだと思っていた。森はずっと自然のまま保たれて、人間はそこに干渉せず、むしろ自分たちの存在を遠ざけるように島の端で暮らした。自然を大切にする文化、自然を畏れる文化。そんなイメージだった。だが実際は違っていた。かつて島の主事業は林業であり、森の中で生活する島民も存在したのだ。

この話のあと、マスターは興味深い質問を自分に投げた。

「島を一周してきたなら、場所場所の文化の差に気づかなかったかい?」

心当たりがあった。そうなのだ。屋久島というのは一日でぐるりと一周できる程度の大きさしかない。それなのに、外周を進む中で風景、雰囲気がガラッと変わっていく感覚に何度も襲われた。海があり山があり家がある、それは変わらないが、あるポイントを過ぎると、大げさに言えばまったく違う地方に来たように感じることがあったのだ。

「屋久島っていうのは小さな島だ。そして島の中央に島最高峰、標高2000メートル近い宮之浦岳がある。そんな高い場所から流れ出る水は川となっていくわけだが、島の面積が狭く海までの距離が短い分、その勾配はきつくなる。要するに、流れの早い川になるわけだ。そうなると、川幅はどうなる?」

「ええと……広くなるんじゃないでしょうか」

「そう。短い距離をスピードの早い水が流れ落ちるから、地面は侵食されて川幅は広くなる。結果、こんな小さな島にしては広い川が何本もできあがったんだよ」

「なるほど」

「川には橋をかけなきゃならない。だが、川幅が広ければ広いほど金がかかるよな。この急勾配じゃ川幅は河口に向かってどんどん広くなるから、沿岸部で作ろうと思うとそれだけ多くの金がいるわけだ。結果、橋は上流、できるだけ川幅の狭い地区で作られることになった。林業が盛んだった当時も、沿岸部の方が住んでいる人間は多かった。さて、それでは問題。このような状況で橋が上流に架けられると何が起こる?」

「ええと……上流でしか行き来ができません」

「そう、つまり?」

「つまり……河口付近では移動できない」

「そう。そして多くの島民にとっての生活拠点は沿岸部だった。つまりだな、河川による文化の分断が起きたわけだよ。隣の地区なのに、橋がないからコミュニケーションができない。結果、こんな小さな島なのに、5つの文化圏が成立した。信じられないかもしれないけど、喋り方も全然違ってたんだ。今でこそだいぶ交わったけど」

マスターの話には説得力があった。沿岸部を一周する中で何度も感じたあの感覚は、そういった歴史が感じさせたものなのかもしれない。たとえば、自分が滞在した宮之浦港付近と、尾之間温泉の周辺の集落では、まるきり雰囲気が違っていた。

屋久島のこれから

マスターはこれからの屋久島について、「変化してく必要がある」と言った。観光地として定着した感のある屋久島だが、その収入は減少傾向にあるらしい。その原因の一つとしてマスターは、「自然を守りすぎて、人間に厳しすぎる」と表現した。

「島民の間でもかなり意見が異なっている。自然遺産なのだからもっとしっかり自然を守ろう、つまり観光を制限しようという人もいれば、もう少しルールを緩くしてより多くの観光客にPRしようという人もいる。どちらが正しいわけでもないし、今は外部の人も増えているから、なおさら議論は難しい。いずれにせよ、このままの状態が続けば、遅かれ早かれ屋久島は立ちいかなくなるだろう。何らかの判断を俺たちは下さなければならない」

マスターの話を聞きながら、気づけばなぜか、涙が滲んでいた。自分がなぜ泣いているのかわからなかった。もちろん、実際の話はこんなにも整然としたものではなかった。書いていない情報もたくさんある。その場の空気感はなかなかイメージしてもらえないだろう。

だが、考えてみてほしい。自分たちは、自分の暮らす地域について、その歴史や文化について、そして未来について、真剣に思考したことが一度でもあっただろうか。当事者意識を持ち、過去の選択に責任を持ち、様々なしがらみの中で、なおよりよい未来を諦めない。そんな覚悟があっただろうか。

自分はなかった。そして多分、これからも難しいだろう。そんな諦観と、その裏返しとしての羨望が、自分を涙させたのではないかと今は思う。

時間が経ち、店には客が増えてきた。マスターも自分一人と話し込んでいるわけにはいかなくなった。その去り際、口にした言葉を今でも覚えている。

「自然は何も言わない。ただ黙ってそこにあるんだよな」

おわりに

ということで、長らく連載してきたこのレポートも終わりにします。体験は体験でしかなく、文字は文字でしかない。そんな前提に立ち返れば、「書くことが怖い」と4ヶ月も執筆を躊躇していた今回の記事が、それほどの刺激を含まなかったことも頷ける。おそらくこれを読んだ人の多くは「これの何が怖かったの?」と思うだろうし、仮に自分が文字でしかこの内容に触れなかったのだとしたら同じ感想を抱くだろう。でも現在の自分は事実あの夜の時間・感情・涙を経て存在している。口にしたタンパク質が筋肉になるように、うっかり口にした失言で人間関係が終わるように、自覚の有無に関わらず人間は「過去」の上に成り立っている。そして自分は、今回の旅を通じて得たあらゆる変化を歓迎する。行ってよかった。出会えてよかった。見れてよかった。聞けてよかった。

若干の酔っぱらいですが、あなたに何らかの変化が訪れることを期待しつつ。

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