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他人を変えることはできない。変えられるのは自分だけ。

みたいな言い方をよく聞く。記事で読んだり、動画で見たり、リアルで口にする人もいたり。生きていれば確かにそういう実感はあって、一方で「そのことを簡単に受け入れられたら苦労しねえよ」という反感が常にセットになっていたりする。

これね、実はけっこう重要なことだと思っていて、なにが重要って、その反感の中身をほじくっていくと、「自分を変えること=他人の要求を受け入れること=我慢すること」みたいに認識しがちだぞ、という部分。

実際そうじゃないですか?「他人を変えたい」と思うときというのは、要するにその他人に対して要望(の未達)や不満があるときで、それをなんとか解消したいんだけど、その人は思うように変わってくれない。

で、冒頭の言葉。まあなんか良いこと言ってるよね、格言だよね、みたいな部分は”頭では”理解できても、”現実的には”とても理解できないと言うかしたくないと言うか、「はいはい、私が我慢すれば良いんでしょ」的な格言どころか呪いみたいな言葉として記憶されたりして。

この状況で、要望の達成や不満の解消を「自分が変わることで」叶えようとすると、なんかパラドックスみたいだけど、そもそも「要望の達成や不満の解消を求める自分がいなければいい」みたいな思考になっちゃうわけ。

という前提があって、その上で、実はそれは間違ってるよってことが言いたいわけです。

<他人を変えることはできない。変えられるのは自分だけ>

この言葉はちょっと言葉が抜けているのです。本当は、

<他人「の選択」を変えることはできない。変えられるのは自分「の選択」だけ>

なんです。

同じじゃん、と思うかもしれないけど、そうね、同じ場合もある。他人の選択が変えられないから、自分の選択を変える。ほら、我慢じゃんと。

でもまずここで気付いてほしいのは、他人に要望や不満を感じたその”問題”から、「離れる」という選択もあるよ、ということなんです。「離れる」「拒否する」「他の人に頼む」みたいな選択肢があるということに気付いてほしいわけ。

なんて言えば、「そんな簡単じゃない!」と怒られそうだけど。「プライベートならまだしも仕事だから!離れるとか無理だから!」なんて言われそう。

そう。だから、問題はその他人や関係性そのものではなく、「選択ができない環境」なんだ。「選択肢を(もしかしたら無自覚に)失っている自分」なんだ。

<他人の選択を変えることはできない。変えられるのは自分の選択だけ>

選択肢を取り戻した状態でこの言葉を眺めていると、ちょっと受け止め方が変わってくる。「あれ、前半ってけっこうどうでもいいな」と思えてくる。つまり、

<変えられるのは自分の選択だけ>

言い換えれば、

<自分の選択は変えられる>

ってことだ。

これだけ覚えておけばいい。他人は別に関係ない。自分で自分の人生を選択していくこと。努力して選択肢を増やしていくこと。その過程で当然他人と関わることもあるけれど、その中で感じる要望や不満に「我慢」ではなく「選択」で対応していくこと。

それだけで、人生は変わっていくような気がする。

ま、「選択しなくていい状態」が心地いい、楽だっていうのもね、わかってるんだけど。それはまた別の話で。

とりあえず、ふとこんなことを思ったので書いてみました。

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