【小説】 愛のギロチン 8
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俺は何をやっているのだろうか。大貫がいま中にいる診察室の扉を見ながら考える。
二日酔いで頭がうまく回らない。いや、気分が悪いぶん余計に、俺の脳内スクリーンにはドロドロした黒い感情が映し出される。本木との会合が自分の期待通りに進まなかったことが、思った以上に自分を痛めつけていた。
期待? 俺は本木にそこまで期待していたのだろうか。自分の会社を立ててブイブイ言わせている本木に、本気で誘ってもらえるとでも思っていたのだろうか。そもそもヤツの会社が具体的にどんな事業をしているのかもわかっていない。求人広告の営業しかしたことのない自分に勤まる仕事があるのかも知らない。
そうだ。俺は期待など、本気でしていたわけじゃない。ただ、もしかしたら、と思っただけだ。俺のことを多少なりともわかってくれている本木なら、俺に“助け舟“を出してくれるんじゃないかと、そう思っていただけだ。
考えている俺の前を、大貫よりもずっとヨボヨボした老人たちが過ぎていく。足を引きずったり、車椅子に乗って、希望のない目でぼんやり宙を見ながら。中には汚れた衣服を身に着けた人や、ホームレスと見紛うような汚い顔をした人もいる。
彼らを憐れに思いそうになって、あるいは見下しそうになって、慌てて止める。
彼らと俺と、一体どんな差があるというのか。彼らは自分の未来だ。……いや、彼らはあの年齢まで立派に生きている。境遇がどうあれ、人生に立ち向かっている。
だが、俺は?
そんなことを悶々と考えていると、扉が開いて中から大貫が出てきた。肩には松葉杖がある。若い看護師が笑顔で大貫に何かを言い、大貫も笑って何かを言い返す。冗談でも言ったのだろうか、看護師は口に手を当てて笑い、大貫の肩を軽く叩く。
タクシーを降りてからここまでは、昨日の夜同様に肩を貸して歩いてきた。だが、松葉杖のおかげでもう自分で歩けるようだ。診察室の扉がゆっくりと閉まる中、大貫が杖をつきつき、こちらに近づいてくる。
ようやくお役御免か。ホッしながらも、怒りの感情は消えない。どうして俺がこんなことに巻き込まれなきゃいけないのだという怒りが、火の消えた後も熱を発する炭のようにくすぶっている。
「おう、待たせたな」
おう、じゃないよまったく。さすがに口から文句が出そうになった瞬間、おや、と思う。さっき看護師に軽口らしいものを投げていた笑顔が、診察室からここに来るまでに完全に消えていた。いや、それだけではない。昨日は自販機の光の前ですら血色が良いと思ったが、今はなんだか顔色が悪い。
「さあ、帰るか」
そう言って俺の前を通り過ぎていく大貫。俺は思わず立ち上がり、その背中に聞いた。
「あの……足、どうだったんですか」
大貫は動きを止め、ゆっくりと振り返った。また眉間に深いシワをよせ、「なんだって?」と軽く首を傾げる。
「いや、だから、足ですよ。大丈夫だったんですか?」
俺はそう言って、真新しい包帯の巻かれた右足を指差す。パッと見た感じギプスらしきものははめられていない。骨折などはしていなかったのだろう。だが、それならなぜそんなに沈んだ顔をしているのか。
「阿呆、足じゃない」
「え?」
驚く俺に、大貫は妙に居心地の悪そうな顔をした。怒られた小学生男子のように顔を背け、言い訳のように続ける。
「足はついでに見てもらっただけだ。ちょっと挫いただけだから、これはスグ治るってよ」
「ついで? ってことは……」
俺は今更のように気づき、視線を上げた。天井からぶらさがった電光看板にはでかでかと「内科」と表示されている。
そして大貫は言った。
「俺がここに来たのは、肝臓を見てもらうためだ」
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