DJ CAN(39歳) 還元すること…地元の音楽シーンに求めるサスティナビリティ~前編~
第2弾は、DJ気絶が自身のロールモデルの1人として影響を受けているというDJ CANのヒストリーとそのキャラクターを解き明かす。
3年で何も感じなかったら諦める
21歳で本格的にDJとして始動してから約6-7年。1つの夢を追い求め、がむしゃらに走り続け、たどり着いた。そこは横浜のパーティーシーンで人気を博したクラブLOGOSのレギュラーイベントY-Rep。金曜、週末の華だ。
2000年代はじめ。往年のHiphop、R&Bはもちろん、新たにRihanna、David Guetta、Nicki Minaj、LMFAOなどのEDM要素を取り入れた楽曲たちが当時のクラブを沸かせていた。
DJ CANのプレイスタイルは、自分に対して正直になること。これらどの曲もオーディエンスを沸かせることが確実だったとしても、自分の感性が求めているもの以外は流さない。そして、それをクラブDJとして現場の正解に創りかえるのだ。
『始めた当初は、同世代のDJたちがもっと早くからキャリアを積んでいて…自分は遅い方だったかなと。横浜だとみんなすでにCLUB B、THE BRIDGE YOKOHAMA、LOGOSなどで活躍していた。』
いつか彼らと肩を並べてプレイしたい。その一心が原動力だった。
ほぼ毎夜クラブに通い、DJブースにかじりついてテクニックを研究した。
自分が現場でプレイをした日は家で同じ流れを再現し、録音したものを客観的に聴いては分析した。
もはやその時の彼の耳に聴こえていたのは、中高生時代にハマったスケボーのBGMや趣味で買い漁ったレコードの音ではなかった…。
23歳で発表したMIX TAPE『Don’t Stop』のリリースパーティーには約400人を集め、DJ CANとしてのキャリアを確かなものにした。
そのパーティーはTHE BRIDGE YOKOHAMAで隔月開催される 『FUN』として今なお続く人気イベントだ。
音楽の道を選んだのは、就職が差し迫ったハタチの頃。今しかできないことを求め、決心した。母親との約束は、「3年で何も感じなかったら諦める」というものだったが、もうその必要はなかった。
音楽にのめり込んだ青春時代
J-Waveのレジェンド番組『HIP HOP Journey da Ceypher』から流れるMIXを毎週末、テープに録り溜めた高校時代。
『MUROさん、KEN-BOさん、HAZIMEさん、WATARAIさんのMIXはめちゃくちゃ聞いてたなぁ。』
渋谷のマンハッタンレコードに貼り出されるプレイリストを見に行き、その度にレコードを買い集めた。
初めて買ったレコードはRUN-DMCのベスト盤。当時のレコード店ではまだHIPHOPの存在感は大きくなかったが、彼らのファッションセンスに心奪われた。完全にジャケ買いというやつ。
『邦楽で思い出に残っているのは、MISIAのREMIXバージョン。HIP HOP Journey da Ceypherで流れてヤバっ!てなったの覚えてます。』
MISIA / つつみ込むように DJ WATARAI REMIX feat. MURO
MISIA / 陽のあたる場所 feat. K DUB SHINE
そんな音楽への熱をしっかりと形にした瞬間ー。
目標にたどり着いたら抜け殻になっていた
LIFE EARTHとして活動を共にしているMC NONKEYとの出会い、夢に見たDJたちと肩を並べてプレイをする週末のクラブイベント。多くの武器を身につけたDJ CANは、ふと気がつくと抜け殻になっていた。
『27-8歳くらいの時に、1、2ヶ月くらい抜け殻になっちゃって…。まわりにはバレないようにしてたけど。DJはじめた時の目標がLOGOSの週末の帯だったから。夢が叶っちゃってぽか〜んとしてた。笑』
『でもそこで、与えられている人から与える人にならなきゃって思った。自分がそうだったように、俺のDJ見たり聴いたりして、こんなDJになりたいってヤツが現れなきゃ俺も終わりだし、このシーンも終わっちゃうんじゃないかって…』
夢が叶うとと同時に訪れたうつろな感覚。そして、不確実な未来に対する漠然とした不安がふつふつと沸き起こっていた。
後編へ続く…。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?