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せっかく与えられた人生を全力で楽しみたい!そんなことをモットーに日々、生きております。…

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せっかく与えられた人生を全力で楽しみたい!そんなことをモットーに日々、生きております。自分の人生を心から謳歌したいと思う方々に向けて、背中を押せるような記事を書いていこうと思います。

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    アーティストたちの過去、現在、未来。 作品に対する思い、活動における思いを対話から紐解き、ジャーナルとして伝えていきます。 アーティストたちによるリレーバトン形式で繋ぐシリーズです。

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【自己紹介記事】プランド・ハップンスタンス

プランド・ハップンスタンスって何!?みなさんにインタビューしておきながら、自分の自己紹介は苦手なのですが…このたび書いてみようと思います! タイトルにインパクトを持たせるのが個人的に好みなので、こんな風になりました笑! プランド・ハップンスタンスという単語を聞いて、おっ!と思う方は『キャリア』や『教育』、『コーチング』などの分野にお詳しい方ではないでしょうか。 Planned Happenstance Theoy ⇓ 計画的偶発性理論 なんだか小難しい言葉ですね笑

    • 初めてでもOK!【京都一人旅】一泊二日で坂本龍馬ゆかりの地を巡ってみました

      ~その3:怒涛の史跡めぐり~京都一人旅もいよいよその3となりました。 今回は2日目の旅程をご紹介したいと思います。 前回までの記事はこちら。 素晴らしい朝は二寧坂 7:30頃に起床し、身支度をしていると部屋をノックする音が聞こえました。 待ちに待った朝ごはん。つぶら乃のたまごやきサンド。 朝からボリュームたっぷりのたまごやきを堪能できてテンションが上がりました。 朝ごはんを食べながら今日行くところをGoogle Mapで検索します。 思った以上に数があるな。本当

      • 初めてでもOK!【京都一人旅】一泊二日で坂本龍馬ゆかりの地を巡ってみました

        ~その2:龍馬との初対面から清水寺の夜間特別拝観~ 「その1:旅行準備から観光スタート」までの記事はこちら なぜ坂本龍馬の旅にしたのか、旅の準備や初日前半の出来事について紹介しています。 龍馬に会いに行く まずは腹ごしらえ。 ホテルから出て、最初に探したのはお昼ご飯が食べられるところです。 龍馬のお墓までの間に五条坂や清水寺商店街を通るので、どこかしらランチにいい場所があるかな、とフラフラ歩いていました。坂を登りきって緩やかな下りに差し掛かったところでそれは現れました

        • 初めてでもOK!【京都一人旅】一泊二日で坂本龍馬ゆかりの地を巡ってみました

          ~その1:旅行準備から観光スタートまで~ワクチン接種が進み、少しだけコロナの感染が抑えらえた2021年10月。 ふと坂本龍馬のことを思い出しました。 諸説ありますが、坂本龍馬が亡くなったと言われる年齢が33歳(満31歳)。暗殺されたと言われる命日が慶応3年11月15日(1867年12月10日)。 そういえば私も33歳。 龍馬と同じ歳になったし、命日もそろそろ。中学生の時にその存在を知ってからずっと憧れていた坂本龍馬。 土佐出身である坂崎紫瀾の伝記小説「汗血千里駒」(か

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        【自己紹介記事】プランド・ハップンスタンス

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          強くて繊細なMissy Elliottのサクセス・ストーリーを書きたくなりました

          ※キャリアが凄すぎて長くなりましので、お時間のある時にどうぞ。 Missy Elliott(ミッシー・エリオット)がこれまでプロデュースしたアーティストは、Aaliyah(アリーヤ)、Mariah Carey(マライア・キャリー)、Whitney Houston(ホイットニー・ヒューストン)、Mary J Blige(メアリー・J・ブライジ)、Beyoncé(ビヨンセ)、Monica(モニカ)、Lizzo(リッツォ)、Ariana Grande(アリアナ・グランデ)、Jaz

          強くて繊細なMissy Elliottのサクセス・ストーリーを書きたくなりました

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑧〜聞きたいことを聞く回〜

          ひとしきりお話をお伺いして、私は気になったことをぶつけてみました。 「DJに対するアーティストという呼称について」 自分はアーティストだとは思っていない。 現場のディスコDJ出身なのでよっぽどじゃないと配信系もやらないし、MIXCDは作らない。 「ホンモノのアーティスト」って言われる人が0から物を作って販売するのは正当だと思うが、自分たちDJはお客さんを踊らせるためにアーティストの作品を「借りて」、プレイしている訳だからね。 著作権などグレーになっている部分はあるけど、

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑧〜聞きたいことを聞く回〜

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑦〜バトンタッチ〜

          音楽の移り変わり、一周回って・・・2001年・DJ TAC33歳。 「いい加減やりつくした。」 クラブ ロゴスではゴールデンエラ・ミドルスクール世代のお客さんが年齢的に卒業し始めていた。 94年、クラブハーネス時代にメインとなっていた音楽はHIPHOPのゴールデンエラ・ミドルスクールと言われている。NYが一番面白いとされていた頃。 時代の流れとともに音楽はどんどん移り変わっていく。 90年代後半期~2000年初期になるとイーストコーストだけが主流なのではなく、ウェス

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑦〜バトンタッチ〜

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑥〜習慣化〜

          クラブ ハーネス90年代初期のとある日、「マハラジャ」「サーカス」など横浜で注目を集めていたお店から各DJが集合をかけられた。 そこで議題にあがったが、元町に新しいお店を作るということ。 それが「クラブ ハーネス」だった。 DJ TACは「土曜日を好きにやらせてもらう」という条件でその一大プロジェクトに参加することとなった。 94年「クラブ ハーネス」開店。 横浜のクラブの走りになったが、週末もあまりお客さんが入らない状態が続いた。 その理由が音楽の移り変わりだ。

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑥〜習慣化〜

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑤〜ディスコからクラブへ〜

          クラブ文化の登場90年代に入り、ディスコの様相が変わってくる。 バブルの崩壊により常連客にならない「ノリ」で来ているお客さんが一気に減った。 少人数単位の夜遊びが主流となり、カラオケボックスが定着した。また、その裏には風営法の強化もあった。 遊び方のトレンドが大きく変わってきたのだ。 そこに合わせて「クラブ」がディスコのポジションに取って代わるようになってきた。 「クラブ」は「ディスコ」と対照的な空間だ。 照明ギラギラで開放的な広い空間であるディスコ。 一方

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)⑤〜ディスコからクラブへ〜

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)④〜サーカスに就職:後編〜

          バブル景気とともに「自分1人だったらなんとでもなるし。脱サラして好きなことをやろうと決められたのも若さと時代かな。」 バブル景気の真っ最中はお客さんみんなの景気がよくて「何とでもなる」というポジティブな気運があった。 とにかく多くの人が「遊ぶ」のに忙しい時代。 さらに高まる需要に「遊び」を提供する側としては、納得されるだけのプロフェッショナルさが求められてくる。 そこには大切な「下積み」があった。 お店に入ったからと言ってすぐ人前に立てる訳ではない。 下積みの方法

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)④〜サーカスに就職:後編〜

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)③~サーカスに就職:前編~

          音楽カルチャーと横浜のむかしばなし70年代と80年代で流行った音楽の大きな違いとは・・・ 「生音」から「デジタルの打ち込み」に演奏が変化したこと。 それがディスコ文化を生み出し、ダンスミュージックの一般化を促したといえる。 80年代は全てのものごとが一気に変わっていった10年間。 80年代初期、横浜の本牧はアメリカ軍基地の跡地。一般人は中に入れない寂れた一帯。 桜木町の裏側からみなとみらい区間は国鉄の所有地で貨物の車両基地だった。 TACさんの「国鉄」という言い方が素直

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)③~サーカスに就職:前編~

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)②~DJをディスクジョッキーと読む~

          音楽の英才教育風営法も無ければなんでもアリだったDJ TACの子ども時代。 70年代後半、小学校の同級生が歌謡曲を聞いているような時。一方で、欧米の楽曲を聴く機会が多くあった。歳の離れた親戚やさらにその友達から日本には無い新しい音楽を教わった。 レコードはシングルがほぼなく主流はLP盤(アルバム12インチ)。とても高価だった。それを聴ける機会があればみんなで集まって聴いて、録音させてもらった。 幼少期から欧米音楽の英才教育を受けていたTACさん。 うらやましい限りです。

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)②~DJをディスクジョッキーと読む~

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)①~転機とリスク~

          今回のインタビューは確実に私にとってのトランジション(転機)となりました。 トランジション~小ネタ~私が勉強しているキャリア心理学の世界でトランジションの内訳はこのように言われています。 臨床心理学者のウィリアム・ブリッジズによると「トランジション(転機)」は次の3段階として表すことができる。 「始まり(何かが始まる)」 ↓ 「終わり(何かが終わる)」 ↓ 「ニュートラル・ゾーン」 ニュートラル・ゾーンの最中は、自分の内面と丁寧にしっかりと向き合うことでトランジション(

          35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)①~転機とリスク~

          私のオキシトシンを放出させるDJに出会った話③~DJ SHUN (40歳)~

          これが横浜、それも横浜 DJライフでこれまで影響を受けた人は山ほどいるが、プレイスタイルにまで影響を受けたというのはあまり無さそう。 「影響」というより「衝撃」を受けたのはDJとしても尊敬できるし、色々な考え方が(自分とは違うけど)すごいな、と思ったDJ UE。 俺のプレイスタイルって、しっかり1曲1曲を流してMIXしていくんだけど。自然と横浜はそういうスタイルだと思っていたんだよね。 DJ UEのプレイを聞いた時に自分が横浜のプレイスタイルと思ってきたものが全然違って。

          私のオキシトシンを放出させるDJに出会った話③~DJ SHUN (40歳)~

          自分の顔を気にしているのは自分だけ。疲れた心を癒す言葉たち。

          なんだか色々なセンセーショナルなことが公私ともに起こり、気持ちがすごく昂っていたのですが、少しだけ一息ついた今夜。 とても心が疲れていたので、夜中のつぶやきをしたいと思います。 お風呂上がり、ぼーっとしていたらふとある本のことを思い出しました。それは、 『嫌われる勇気』 岸見一郎氏と古賀史健氏の共著によるアドラー心理学を分かりやすく記したベストセラーですので、noteでも取り上げている方は多いと思います。 私は心が疲れるとこの本のことを思い出す癖があります。 きっ

          自分の顔を気にしているのは自分だけ。疲れた心を癒す言葉たち。

          私のオキシトシンを放出させるDJに出会った話②~DJ SHUN (40歳)~

          都内から海外へ、そして横浜に出戻ってきた私は日常生活に戻りながらも『そう言えば横浜にクラブってあるのかな』と薄々、気にはなっていました。 恥ずかしながら、アラサーになるまで横浜の夜遊びに疎かった私です。 カルチャーショック**とある日、友人との飲み会の流れで探し当てたのが『THE BRIDGE YOKOHAMA』というクラブでした。 これまで都内のパリピとして活動していた私にとって、その空間は大きなカルチャーショックでしたね。 入り口に立って呼び込みをしていた方のノリ

          私のオキシトシンを放出させるDJに出会った話②~DJ SHUN (40歳)~