落ちて、こぼれる
落ちこぼれずに旨げに成って
むざむざ食われてなるものか
落ちこぼれ
結果ではなく
落ちこぼれ
華々しい意志であれ
茨木のり子さんの詩に魅せられて、彼女の詩作と随筆を片っ端から読む日々を送っています。
背筋がぴんと伸びるような彼女の詩は、日々のなまけた態度をしゃんとさせ、失われた初々しさ、忘れかけていた本当に大切にすべきことを、思い出させてくれます。
冒頭の引用は『落ちこぼれ』という詩。
「落ちこぼれ」という言葉の美しさにはたと気づいた彼女がつづった、力強くもやさしく背中を押してくれるような詩。
同じ詩のなかで彼女は「落ちこぼれ」という言葉の響きを「和菓子の名につけたいようなやさしさ」と表現しています。
なるほど、そんなこと考えもしませんでした。確かにそんな気がしてきます。
落ちて、こぼれる。雨粒が葉っぱの表面を滑ってぽとりと落ち、地面に染みこんでゆくような、風流なイメージさえ浮かんできます。
どうしても人を自責の念に囲い込む「落ちこぼれ」という言葉。その言葉の響きに日本的な美しさを見出し、「落ちこぼれ」にしかない魅力と経験を、プラスに捉えている詩です。
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近頃、『ゆる言語学ラジオ』というYouTubeチャンネルにはまっています。
言語学に造詣が深い現役編集者と、ライターとして活躍する理系男性の対談形式で送られるこの番組。
あらゆる日本語の語源や文法の不思議、英文法との比較やソシュールの学説の解説などなど、ゆるくわかりやすく解説してくれています。
その中で、日本語の語源は擬音語を由来としているものがとても多いという話がありました。
例えば「光」はなぜ「ひかり」なのかというと、何かが光る様子を「ピカピカ」と表現したからという説があるそう。
また「吸う」の語源は、息を吸うときの音を表せばスーっと、「吐く」はハーっと、「吹く」はフーっというからなのだそうです。
言葉はきっと自然や人が発する音をまねることからはじまったのでしょう。言葉の音楽性がよくわかる語源の例です。
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落ちこぼれの話に戻りましょう。
落ちこぼれは「落ちる」と「こぼれる」の二語が組み合わさっています。
落ちこぼれという言葉の響きの「和菓子の名のにつけたいようなやさしさ」は、「こぼれ」の部分から感じられるような気がするのは、私だけではないはずです。「こぼれる」について、少し探ってみましょう。
「こぼれる」は漢字で「零れる」と書きます。「零」は「ゼロ、レイ」とも読みますよね。
「零」の最初の意味は「雨だれ」だったとされています。そこから雨だれが「こぼれる」「したたる」に発展したそうです。
そこからさらにこぼれたもの=「あまり」という意味が付随し、それが数に対して用いられた場合、「端数」や「ごく小さな数」となり、やがて「何もない数」=ゼロを表すようになったとか。
ちなみに「こぼれる」という読みは、液体が外に流れ出るときの音を「こぼ」という擬音で表現したことからきているという説があるそうです。ここでもまさかの擬音でした。
なるほど「こぼれる」という言葉が奥ゆかしいのは、その言葉の発展のうちに雨水があふれてしたたること、あふれる際に「こぼこぼ」と泡立ち流れ出ること、数量の「あまり」ができることなどが含まれているからかもしれません。
茨木のり子の詩、そして「こぼれる」の語源に触れた今、もし誰かに「落ちこぼれ」と言われたときには、もはや落ち込む必要などないのかもしれません。
あふれてこぼれるということは、それだけたっぷりとして、豊かであるということです。
「落ちこぼれ」なのは、そのたっぷりな水を受け止めるための器が小さすぎるだけなのかもしれません。
私たちが本当に目を向けるべきなのは、成績や点数、順位、スコアではなく、研鑽の過程で汲み上げられた教養や経験、編み上げられた思考と意志なのだと。
落ちこぼれ 茨木のり子
落ちこぼれ
和菓子の名につけたいようなやさしさ
落ちこぼれ
いまは自嘲や出来そこないの謂
落ちこぼれないための
ばかばかしくも切ない修業
落ちこぼれにこそ
魅力も風合いも薫るのに
落ちこぼれの実
いっぱい包容できるのが豊かな大地
それならお前が落ちこぼれろ
はい 女としてはとっくに落ちこぼれ
落ちこぼれずに旨げに成って
むざむざ食われてなるものか
落ちこぼれ
結果ではなく
落ちこぼれ
華々しい意志であれ
この詩はこちらのp114-115に収録されています。
茨木のり子については、こちらの記事でも。
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