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最後期のポワン・ド・フランス

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


ブリッド・ピコテ Brides picotées

ー ポワンクト・ド・フランス

 1665年にフランス国王ルイ14世は、財務総監のジャン=バティスト・コルベール ( 1619-1683 )の献言を受け入れてフランス各地に《 王立レース製作所 》を設置することを決定しました。

 国王は王室の庇護下でフランス各地に設置されたレース製作所を運営するレース会社に対し、他国で発展した既存のさまざまなレースの技法を模倣しつつそれらを凌駕するフランス独自のレースの開発を命じたのでした。

 国王はそのレースを《 ポワンクト・ド・フランス 》と自ら命名し、各レース製作所はその技法の完成に勤しむこととなりました。

ローランス・ド・ラプラードによって1905年に上梓された
『 Le poinct de France et les centres dentelliers au XVIIe et au XVIIIe siècles 』
の表紙

 ポワンクトpoinctはラテン語の「 縫い目 」を意味するプンクトゥムpunctumを元にした動詞のプンゲーレpungere「 縫う、刺繍する 」、その過去分詞形から創出された中世の古フランス語で《 レース 》を表す雅語的表現です。

 17世紀には未だ古い形態のフランス語が使用されていたために正確にはポワンクト・ド・フランスと綴られていましたが、現代フランス語ではポワン・ド・フランスと一般には呼び習わされています。

 このポワン・ド・フランスが1665年以降、18世紀前期にかけて徐々に技術を洗練させていきました。しかしその裏で1685年の『 ナントの勅令 』廃止後( アンリ4世によって限定的ではあるが認められた新教徒の信教の自由が否定された )フランスでは大量のユグノー( フランスの新教徒 )商人や職人の国外への流出を招き、商業や産業が大打撃を被り一気に衰退することとなります。

 繊維産業に従事する人々の多くは新教徒で、レース商人や図案家、レース女工も当然多数のユグノーに占められていました。そのため、フランスのレース産業は17世紀末期から18世紀初頭には生産力を低下させ、品質も自ずと悪化していきます。

 そのようなレース製造が品質を向上させていったのは、18世紀前期の1710年代の終わりから1720年代にかけてのことでした。またフランドルなどへ流出した職人たちも独自に技術を発展させて、より精緻なレース製作を実現させていくのでした。

ー ブリッド・ピコテ

  1680年代まで自由に不規則なブリッド( モチーフの繋ぎ )に装飾的な複雑なピコット装飾を加えていたものが、漸次的に六角形で2〜3個の簡素で単純なピコットの装飾に変化していきます。

 このブリッドは徐々に縮小化して、密度も高くなっていきました。この六角形のピコット装飾のあるブリッドは《 ブリッド・ピコテ 》と呼ばれています。 

18世紀の第二四半世紀に製作されたポワン・ド・フランス
( 1730年代 - 1740年ごろ )
わずか幅6.5cmのレースには非常に緻密なステッチワークが施されています
驚くほど極細番手の亜麻糸を使用しているので、
ブリュッセルなどのフランドルで製作された可能性があります

 このブリッド・ピコテはポワン・ド・フランスかポワン・ド・スダンと現在呼んでいるレースのグラウンドに見られる特徴であり、1740年代を境に姿を消していきます。

 時代の美意識の変化によって、ピコット装飾が排除されより軽やかな印象にレースは変化していきました。ピコットの無いボタンホール・ステッチによるシンプルな六角形のブリッドである《 アルジャンタン 》や、ボタンホール・ステッチではなく2本の糸が搦み合うだけのより繊細な《 アランソン 》と呼ばれるメッシュが好まれるようになります。

モチーフを繋ぐピコ・ドゥーブル( 2つのピコット飾り )の《 ブリッド・ピコテ 》

最後のポワン・ド・フランス

ー 18世紀の第二四半世紀のニードルレース

 ポワン・ド・フランスやポワン・ド・スダンと呼ばれているニードルレースは1715年頃から1730年代に大流行することになります。

『 Le poinct de France et les centres dentelliers au XVIIe et au XVIIIe siècles 』のなかで
18世紀のポワン・ド・フランスとしているニードルレース
現在ではポワン・ド・スダンに分類されています

 この時代の多くのレースのグラウンドにはブリッド・ピコテが用いられました。またこの時代のモチーフは全体的に平坦な盛上げレリーフの無いものか、平坦なモチーフの一部にボタンホール・ステッチのレリーフ装飾を入れたものが多く見られます。

 また1720年ごろから1730年代にかけてはメッシュのグラウンドをもった極薄の平坦なニードルレースがブリュッセル周辺の地域で製作されました。これは一般にはポワン・プラ・ド・ヴニーズ・ア・レゾーと呼ばれてヴェネツィアで生産されていたと信じられていました。

ブリュッセル・ニードルレースは扁平な六角形かダブルツイステッド・スクエアメッシュ
のグラウンドが使用されています

 ブリュッセルではボビンレースに使用するフランスよりも細い亜麻糸が用いられたために、強く引き締めてニードルレースを製作したので非常に扁平な六角形のメッシュかダブルツイステッド・スクエアメッシュの特徴がありました。

モチーフを装飾するドットのメッシュ部分には
ダブルツイステッド・スクエアメッシュが使用されています

 1740年代以降はモチーフを全体的にボタンホール・ステッチでかがり輪郭線を強調するようになります。これは現在アルジャンタンやアランソンと呼んでいるニードルレースの特徴です。

 このレースはおそらく1730年代から1740年ごろにかけて製作されたもので、ブリッドの形状からポワン・ド・フランスとすると最後期に属するレースと考えられます。

ー さまざまな特徴をもつレース

 今回取り上げたレースは非常に興味深いレースです。

 ポワン・ド・フランスやポワン・ド・スダンの特徴であるブリッド・ピコテのグラウンドをもち、後代のアルジャンタンのようなボタンホール・ステッチでモチーフ周囲を縁取っています。さらに当時はフランドル、殊にブリュッセル周辺でのみニードルレースに用いられたボビンレース用の極細番手の亜麻糸の使用や一部にダブルツイステッド・スクエアメッシュがモチーフの装飾に使われていることなどほかのレースにはあまり見られない多くの要素をもっています。

 またある特定の種類のレースと断定し難く、ポワン・ド・フランスの要素を多分に含んでいるもののフランス以外の地域で製作された可能性が高いのです。

 それは先に述べたようにブリュッセル周辺ではないかと考えられるのです。

18世紀の第二四半世紀に製作されたポワン・ド・フランスの拡大図
18世紀の第二四半世紀に製作されたポワン・ド・フランスの拡大図
18世紀の第二四半世紀に製作されたポワン・ド・フランスの拡大図
18世紀の第二四半世紀に製作されたポワン・ド・フランスの拡大図
18世紀の第二四半世紀に製作されたポワン・ド・フランスの拡大図
18世紀の第二四半世紀に製作されたポワン・ド・フランスの拡大図

知識欲とは

 アンティーク・レースの蒐集のおもしろさは、専門家や鑑定士によって定説で鑑別されているジャンルを飛び越えた要素をもっているレースに度々出会うことです。

 その度に首を傾げ、レースと睨めっこをすると疑問が次々と湧いてくるのです。その疑問は知識欲を高めてくれ、資料の調査へのきっかけとなります。

 現在ではウェブ上で過去に出版された専門書などを無料で読むことができるアーカイブも多くあり、印刷された出版物そのものを取り寄せないとならなかった以前と比べれば格段に便利になりました。

 アンティーク・レースに対する研究がはじまりブームとなった19世紀から20世紀初頭に出版された研究書には現代にはない黎明期ならではの情熱のほとばしりがあり、その結晶として著された著作には思いもよらないアイディアの宝庫となっているのです。

 20世紀後期の研究家でヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の学芸員であったサンティナ・リーヴィー女史は19世紀に出版されたバリー・パリッサー夫人の研究を非常に重視していました。

 リーヴィー女史の深い探究と研究の成果として100年以上以前にパリッサー夫人の発表したレースの歴史に関する研究内容の真実性に気づき、夫人の考察を踏襲したと思われるのです。

 彼女たちの典拠とした18世紀当時の資料を読み解くことで、このポワン・ド・フランスの技法で製作されたレースもフランス以外の地域で生産された可能性に気づかせてくれたのです。


おわり

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