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コレクションにおすすめのレース ①

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


『 私のおすすめするレース 』

ー メヘレン・レースまたは《 マリーヌ 》

 レース蒐集をする際に、ボビンレースならば私が個人的におすすめするのは【 メヘレン・レース 】です。メヘレン・レースはフランスでは【 ドンテル・ド・マリーヌ 】( Dentelle de Malines )と呼ばれ、17世紀から18世紀にはフランドル産の連続糸技法のレース全般を指していました。

 メヘレン・レースの大きな特徴が、モチーフを縁取るギンプと呼ばれる太番手の絹糸や亜麻糸が使用されていることです。

 ボビン・レースとしてメヘレンはフランドル地域で街の名前を冠した最初のレースであるといわれ、1657年に作成されたフランス元帥フィリップ・ド・ラ・モット=ウダンクール( 1605-1657 )の遺産目録に《 パスマン・ド・マリーヌ 》( パスマンとはボビンレースを指す言葉 )で飾られた衣服が含まれ、17世紀半ばには既にマリーヌ(メヘレン)の名称が使用されていたことが知られています。

 17世紀後半にフランスで設立された多くのボビン・レース産業はフランドルの《 アングルテール 》と《 マリーヌ 》の模倣品を製作することが奨励されました。

 それらはルイ14世( 1638-1715 )の財務総監ジャン=バティスト・コルベールによる王立レース製作所事業の廃止後も、例えば1686年の王のための建設費の予算としてジャン・モウリー氏に対してトネール、ラニィ、オセールの各地に設立された【 マリーヌ様式のレース製作所 】の出資が計上されている点などからも国家的な支援がなされていたことがわかります。

 このようなフランス政府の支援は18世紀後半まで断続的におこなわれ《 アングルテール 》と《 マリーヌ 》という2つの名称は18世紀を通じて使用されました。

 しかし他のフランドル地域のレースに関する名称の記述が見られないことから17世紀から18世紀にかけて使用されたこれらの名称は、それぞれ不連続糸技法のパート・レースと連続糸技法のストレート・レースの各技法で製作されたフランドル製ボビンレースの包括的な用語として使用されていたと考えられています。

 18世紀の初期にはネーデルラントに関する旅行記などの記述のなかにメヘレンの街のベギン会について言及する記事が散見され、日本では修道院と訳されるべギンホフ内でも多くのレースが製作されていたことが報告されています。

 ベギン会は13世紀に設立された婦人の互助組織で、都市の中に外界から隔絶されたベギンホフと呼ばれる宿舎や中庭を備えた広大な施設に女性たちが居住し教育・執筆・看護・織布関連産業などの多様な分野での活動を支援した半聖半俗の共同体として知られています。

 メヘレン( マリーヌ )・レースはメヘレンをはじめ、アントウェルペン・リール・トゥルンハウトで作られていたといわれています。

 18世紀の『 商取引辞典 』のなかではイーペル・ブルージュ・ダンケルク・コルトレイクで製作されたボビンレースもマリーヌの名称でパリに流入していたことを指摘されています。また、ほかの同時代の資料によりブリュッセル周辺でもメヘレン・レースが製作されていたことがわかっています。

 フランス国王ルイ15世( 1710-1774 )は王令で冬のレースとして《 アランソン 》のニードルレース、夏のレースとして《 ヴァランシエンヌ 》のボビンレースを宮廷で着用することを規定したといわれています。フランドル地域ではパリやヴェルサイユの宮廷に向けて夏のレースとして《 マリーヌ 》を4月を過ぎたころから商人たちは用意していました。

 17世紀末から18世紀にかけてメヘレンでは糸の改良が進み、繊細でしなやかな軽量のレースが好まれた流行にも後押しされされました。そして《 パートリッジ・アイ 》( ヤマウズラの眼の意味 )フランス語では《 ウイユ・ド・ペルドリ 》や、雪玉を意味する《 スノウ・フレーク 》( フランス語で《 フォン・ド・ネージュ 》 )、アミュール( フランス語でフォン・ダルミュール )、ロザース模様を表現した《 ファイブ・ホール 》( フランス語で《 サンク・トルー 》 )などのステッチグラウンドに使用されはじめました。

カフスに作り替えられたメヘレン・レース   ( 18世紀前期 )
《 ウイユ・ド・ペルドリ 》と《 フォン・ド・ネージュ 》のグラウンド
メヘレン・レースのクラヴァット・エンド   ( 18世紀の第2四半世紀 )
《 ウイユ・ド・ペルドリ 》《 フォン・ド・ネージュ 》《 フォン・ダルミュール 》
のほか《 メヘレン・メッシュ 》などの複数のテクニックが見られるグラウンド

 1720年に世を去ったブルボン公爵夫人マリー・アンヌ・ド・ブルボン=コンティ(1689-1720)の死後に作成された財産目録には「マリーヌ・ア・ブリッドの3点の頭飾り」や「グラウンドのあるマリーヌで縁取られたリネン製ペニョワール」などの名称が見られます。

 18世紀前期にはメヘレン・レースにはブリュッセルと同じく《ブリッド》のものと《メッシュ》のものがあったようです。

《 マリーヌ・ア・ブリッド 》タイプのメヘレン・レース   ( 18世紀前期 )
ブルボン公爵夫人マリー・アンヌ・ド・ブルボン=コンティの財産目録に記載されたのは
おそらくこのようなブリッド( バー )でモチーフを繋いだメヘレン・レースだと思われます

 その後、1740年頃から用いられるようになった六角形のメヘレン・メッシュが最も一般的なものとなりました。このメッシュは基本的にはブリュッセルのドロシェルと同様の2本の編み目と4本の撚り目からなりますが、メヘレン・メッシュの方が編み目が短く立体感があるのが特徴です。

《 キャトル・フィユ 》( 四つ葉 )のグラウンドのメヘレン・レースのボーダー   ( 18世紀中期 )
《 メヘレン・メッシュ 》のグラウンドのボーダー  ( 18世紀中期 )
イギリスのレース研究家パット・アーンショウの旧コレクション

 メヘレン・レースはイギリス王室にも膨大な量が納入され、ウィリアム3世とメアリー2世からアン女王の時代に好まれたレースのひとつでした。治世末期の1713年にはアン女王に83ヤードのメヘレン・レースが247ポンドで納品されています。

 次代のジョージ1世やジョージ2世の治世にも王室はメヘレン・レースを購入し続け、アン女王の崩御後にイギリス王位を継承したハノーファー選帝侯のジョージ1世は自らの戴冠式に帽子商のキャサリン・ヴェズランから納入させたメヘレン・レースのクラヴットを着用したと伝わっています。

 ペルシャのサーサーン朝に起源をもつ《 花青海波文様 》のメヘレン・レース  ( 18世紀中期 )
アイルランド貴族のローリー=コリー家の旧コレクション

 メヘレン・レースの面白さはデザインに限らずステッチの種類など、そのバリエーションの豊富さにあると私は考えます。

 フランドルのさまざまな街や地域で広範囲に作られていたためなのでしょう、現代でも入手が可能なほど18世紀のレースが数も多く残されています。

 また、モチーフ周囲を縁取るギンプにより容易に鑑別が可能であることも私がおすすめするポイントとなります。

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